※2019年6月30日に掲載された記事です。
幼い児童や住民の命が突然奪われた宮森小学校米軍ジェット機墜落事故から今日で60年になります。事故は、いつもと変わらない平和な日常を一変させました。被害者の中には、心の傷を抱え今も多くを語れない人がいます。当時、宮森小5年生だった佐次田満さん(71)の体験を漫画化し、事故を語り継ごうと活動する地域の人たちを紹介します。
1959年6月30日午前10時40分ごろ、米軍嘉手納基地のジェット戦闘機が石川市(現うるま市石川)上空を飛行中にエンジンが爆発し、機体は民家を巻き込み墜落しました。機首の一部は宮森小学校に激突し、校舎が炎上しました。学校は、牛乳(脱脂粉乳)が配られるミルク給食の時間でした。
「先生、戦争だ!」「助けてっ」。辺り一面は炎と煙に包まれ、焼け焦げたにおいが広がりました。燃料を頭からかぶり、背中に火が付いて助けを求める児童や泣き叫ぶ児童、子どもの無事を確かめようと学校に押しかけた親たち。沖縄戦を生き抜いた宮森小の先生は、戦争の記憶が頭をよぎり「地獄かと思った」と話しました。
住民6人と児童12人(そのうち1人は後遺症で死去)の計18人が亡くなり、200人以上が負傷しました。事故は、エンジンの整備不良による人為的ミスが原因でした。操縦士は機体が爆発する前にパラシュートで脱出し無事でした。その後、操縦士の責任は問われませんでした。
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大好きな学校が地獄に
当時5年生 佐次田満さんの体験
宮森小学校5年生だった佐次田満さん(71)は、あの日宮森小学校であった“事件”を身ぶり手ぶりを交え全身で語り始めました。「ドカーン、とものすごい大きな音と同時に、校舎が揺れてみんな驚いて教室から飛び出して行った」。外は、大きな黒煙と真っ赤な炎が勢いよく上がっていました。「頭の中が真っ白になって、どうやって帰ったかは覚えていない」
事故後は「『あんなむごい事故、思い出したくない』という気持ちが強くて、思い出さないように心を抑えていた」と言います。時がたつにつれ「何かしないといけない、とは思っていたが具体的には動き出せなかった」と心の中で葛藤がありました。
事故から36年後の1995年、衝撃的な事件が耳に入ります。本島北部で米兵3人が少女を拉致し乱暴する事件が起きました。
「宮森の事故があった時と沖縄の状況は変わっていない。沖縄の人の主張や権利などが虐げられている。(米軍基地を)減らすしか沖縄の安全は得られない」
事件をきっかけに「『米軍基地があることでこんな事件、事故があった』と多くの人に知らせないと、世間では事件や事故が無かったことになってしまうのではないか」と思い始め、つらい事故の記憶を話すようになりました。
事故から今日で60年。佐次田さんは「宮森の事故を思い出さなくてもいい時代、二度と墜落事故が起こらない時代」が訪れることを願っています。
文・写真 上江洲真梨子
(2019年6月30日掲載 )
ジェット機墜落の状況
米軍嘉手納基地を飛び立ったジェット機は、石川市(現うるま市石川)上空を飛行中に、エンジンから炎が出るトラブルが発生しました。ジェット機には爆弾4発が積まれていたため、操縦士は嘉手納基地から南西の海に爆弾を捨てた後、基地に帰ろうと試みました。しかし帰る途中でエンジンが爆発しました。
操縦士は制御不能になった機体から、パラシュートで脱出しました。墜落した機体は民家をなぎ倒し、衝撃でばらばらになった部品が宮森小に激突。児童・住民を巻き込んだ大惨事になりました。
機体は、大量の燃料もまき散らしていました。落ちた衝撃で、学校や住宅地に燃料がさらに飛び散り、周辺は火の海に包まれました。
証言動画あります
琉球新報社は2018年6月、ヤフーと共同で宮森小での墜落事故に関する動画を制作しました。約15分間のドキュメンタリー「奪われた幼い命~沖縄・宮森小学校米軍ジェット機墜落事故~」には体験者3人の証言動画を収録しています。こちらをクリックすると動画が見られます。