沖縄に認可外が多い理由 本土より先進的だった児童福祉法も…財政難で実現難しく<求めたものは>12


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多くの子どもたちが過ごす託児所=1964年2月24日の琉球新報より

 2016年に改正された児童福祉法は、子どもを保護の対象から「権利の主体」と位置付け、1947年の制定以来の画期的な改正として注目を集めた。

 日本の法律が適用されなかった復帰前の沖縄では、本土法に対応する沖縄独自の法整備が各分野でなされた。本土から6年遅れの53年に制定された児童福祉法は、第1条に「すべての児童は一人格として尊重され」「愛護される権利を有する」とあり、2016年の改正法に匹敵する内容で本土法の先を行っていた。

 法案を作ったのは、日本に留学して社会福祉を学んだ琉球政府の職員や米国出身の職員ら。「沖縄復興に人材育成がいかに大事か先輩たちは知っていた。本土法に負けない法律で、これからの琉球をつくっていこうという意識があったのだろう」。琉球政府で児童福祉を担当した安里和子さん(83)=北谷町=は思いをはせる。

安里和子さん

 ただ現実は厳しかった。安里さんが配属された63年ごろの児童係は3人。対象となる0~18歳は40万人程度いた。戦災孤児、厳しい生活の中で少年非行から保育まで、40万人のあらゆる児童福祉を3人で対応した。「優先順を付けるしかなかった」という中で、最優先課題の一つが保育施設の増設だった。

 沖縄民政府は、労働力確保のため47年に布令第1号で託児所規則を公布したが、財政難で第1号が誕生したのは49年。実際に数が増えたのは、本土復帰を見込んで日本政府からの経済援助が始まった60年代になってからだった。

 しかし当初、国からの援助は建設費のみ。設置主体となる市町村には建設費の25%と運営費の負担があった。財政難で建設できないとする市町村を説得しに安里さんたちは行脚した。

 子どもを預けて安心して働きたいとの声は高まり、65年ごろには「ポストの数ほど保育所を」と求める運動も活発化した。68年には運営費の援助となる「措置費」が日本政府から出されたが、児童定員の1割程度分しかなく、保育士も足りなかった。71年10月時点で保育所は公立・私立を合わせて74カ所、定員は約5千人で、保育を必要とする子どもに対する充足率は推計29・2%だった(おきなわ・保育の歴史研究会発行「沖縄保育のあゆみ」)。

 保育所不足は深刻なまま、復帰に向けて本土との制度の一元化に職員は忙殺された。当時の遅れは、待機児童数、認可外保育園の多さなど近年にまで影響が残る。

 安里さんは「財政力がなく実現できなかったが、哲学と誇りを持つ先輩たちがいた」と、何人もの名前を挙げた。「今は豊かになった。コロナで活動も制限されているが、子どもたち1人1人が力を伸ばせる児童福祉であってほしい」。いつの世も変わらぬ思いを語った。

(黒田華)
(おわり)