経済界出身の稲嶺恵一氏は高い失業率が続いていた革新県政の転換を訴え、1998年11月の知事選で、大田昌秀氏を破り初当選した。基地問題では、米軍普天間飛行場の代替施設を「本島北部の陸上に15年限定で軍民共用空港を建設する」と公約に掲げ、翌99年、県と名護市は代替施設の移設先として現在新基地建設が進む「辺野古の沿岸域」を挙げ、条件付きで受け入れを表明した。
政府は見返りとして、10年間で1千億円の特別予算を措置する北部振興策を決定した。2000年には同市で九州・沖縄サミットも開催した。
「沖縄族」と呼ばれるほど、沖縄をひいきにする自民党の重鎮議員が多くいた時代だったこともあり、政府と県政の関係は良好だった。
稲嶺氏は第4次沖縄振興計画を策定するに当たっては、旧知の国場幸一郎氏(国場組元会長)の言葉を借りて「魚(補助金)より釣り具(制度)が欲しい」と国へ要望した。
第3次振計までの「本土との格差是正」を目指す方向性から転換し、民間主導の「自立型経済の構築」を掲げた。新たな制度として、進出企業に対して法人税の実質軽減などの優遇措置を講じる「金融業務特別地区」(金融特区)と「情報通信産業特別地区」(情報特区)を獲得した。
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