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「私の中に沖縄が」かなえた夢、静かな怒り 川平朝清さん(3)<私と沖縄 復帰半世紀>


この記事を書いた人 Avatar photo 大城 周子
琉球放送の同僚らとマイクを囲む川平朝清さん=1960年頃(川平朝清さん提供)

「一つの日本」に抱いた失望、妻と貫いたフェア精神から続く)

 兄の朝申とともに沖縄で戦後初のラジオ放送に携わった川平朝清(93)。1957年に米国留学を終えて帰国後は琉球放送(RBC)に入社した。英語放送のマネジャー(支配人)に就いたのを皮切りに以降、テレビ開局や経営に携わっていく。

 59年の沖縄テレビに続き、60年には琉球放送もテレビ放送を開始。「放送は人々の興味関心と利益、福祉のために行われるべきである」。朝清は留学中に学んだこの言葉を胸に、沖縄放送界の発展に突き進んだ。

テレビを見る人々=1964年

■「カメジローは放送するな」

 戦後、米国統治下にあった沖縄。立法院議員選挙の討論を録音した際、米軍当局から「瀬長亀次郎のところになったら音を切れ。録音を流すな」と指示されたこともあった。 瀬長亀次郎は米国の統治に抵抗し、熱狂的な人気を誇った政治家だ。

 そんな時も兄の朝申は「あなたたちの民主主義とはこんなものか。言論の自由とはこんなものか」と立ち向かった。

 米軍関係者による事件・事故が相次ぐ一方で琉球警察は捜査権を持たない時代。反米感情が渦巻き、米軍の施政権を盾にした強権ぶりに、60年代に入ると「復帰運動」の熱気は高まっていく。

 あるパーティーで顔を合わせた沖縄統治の最高責任者・キャラウェイ高等弁務官は朝清にこう耳打ちした。「君たちはどういうところに復帰しようとしているのか、よく考えたほうがいい。日本の閣僚は私と君たちの前で言う言葉が違う。彼らは二枚舌だ」

 日本復帰後、その忠告の意味をかみしめることになった。

環境衛生地域を視察するキャラウェイ高等弁務官=1962年10月

■復帰でかなった兄の夢

  朝清は1967年には40歳の若さでNHK沖縄放送局の前身となる公共放送、沖縄放送協会(OHK)の会長に就いた。 沖縄返還が決まると、OHKもNHKにその業務を引き継ぐことに。72年5月15日の「復帰の日」は、引き継ぎ業務でせわしなく過ぎた。

 放送人としては「宮古八重山も含めこれで沖縄に放送があまねく届く。全琉球に及ぶ放送を、と戦後にラジオを始めた兄・朝申の夢をようやくかなえたという安堵が大きかった」と振り返る。

 一人のウチナーンチュ(沖縄人)としては、基地を沖縄に押しつけたままの「返還」に憤りを抱えていた。

 「米国は施政権を戻したほうが基地を維持しやすいと考えた。日本は名を取り、米国は実を取ったのです」

 復帰と同時に朝清は東京のNHKへ転勤になり、一家で沖縄を離れた。

OHK開局式典で並ぶ川平朝清さん(左から2人目)と兄の朝申さん(同3人目)=川平朝申氏資料、那覇市歴史博物館提供

■「日本語ができますか」

  上京から間もなく、旧知の外国人記者を訪ねて記者クラブを訪れたときのこと。その場にいた日本の大手新聞社の記者が、朝清をちらりと見てその外国人記者に向かって言った。「彼は日本語ができますか?」

 長男の慈温(ジョン・カビラ)は転校先の中学校で教師に「沖縄にもテレビはあるのか」と聞かれた。朝清は「日本の人たちの沖縄に対する感覚や知識はこの程度のものか、と。沖縄はこの先どのように向かっていくのだろうというようなことを思いました」と言う。

 復帰に対する相反する思いを朝清は「量より質の問題」と表現する。インフラ面や教育の面では復帰して良かったと感じることも多い。一方で日本政府の姿勢には不満だ。「特に米軍基地に関しては日本はアメリカに従属的すぎる」

沖縄への思いを語る川平朝清さん=5月26日、東京都内(安里洋輔撮影)

■子や孫と訪れた辺野古で

 2015年12月、朝清の米寿を祝うため息子たちの家族も合わせて計11人で沖縄を旅行した。

 首里城で川平家のルーツを確認し、戦没者の名が刻まれた「平和の礎」で沖縄戦の記憶に思いをはせた。そして新基地建設が進む名護市辺野古を訪れた。

 「沖縄県民の意志や希望がいかに踏みにじられているか」。辺野古の青い海を見つめ、孫たちに語り掛けた。「日米安保条約とそれに伴う日米地位協定。その中で沖縄の主権や人権が犯されているのに、日本政府が平然としているのはあってはならないことだ」。静かな怒りを胸に、説いた。

朝清さんの80歳のお祝いに撮影した家族写真=2007年(川平朝清さん提供)

 妻ワンダリーは3年前に亡くなり、今は都内で長男宅近くに暮らす。沖縄を離れ、半世紀がたとうとしている。
 「ウチナーンチュ」という言葉が好きだという朝清。沖縄は特別な存在か?その問いに笑って返した。

 「『特別な存在』などといったものではなく、私自身が沖縄そのものです。沖縄の中に私がいるのです」

(大城周子)

(文中敬称略)

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