(沖縄で戦後初のアナウンサー 島に響かせた希望の声から続く)
1949年にラジオ局「AKAR」の試験放送が行われ、川平朝清(93)は沖縄の戦後アナウンサー第1号となった。
翌年1月には本放送がスタート。開局に奔走した兄・朝申は当初、沖縄民政府副知事に相談したが「時期尚早」と一蹴され、米軍政府の協力を得た経緯がある。米国の資金で受信環境も整えられていった。
そのため放送の最後には「AKARはアメリカ軍政府民間情報教育部が所有し、管理し、操作する放送局であります」といった内容を言い添えた。
52年春、朝清は東京のNHKでアナウンサー養成研修に参加することになり、「本土」を踏んだ。
■切り離された沖縄
東京に滞在中の4月28日。サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は主権を回復した。朝清は本土の新聞の書きぶりを見て、失望と怒りを覚えた。
「幸いだったことは『二つの日本』に分割占領されなかったことだ。二つのドイツ、二つの朝鮮における民族の悲劇と思い比べるならば、『一つの日本』であり得たことは何ものにも代えがたい幸せであった」
条約発効により日本が独立を果たした一方で、沖縄や奄美、小笠原は切り離された。朝清は「まるでお祝い気分で憤りを覚えました。私にはそれ以来、日本という国は沖縄が眼中にないのだという気持ちが生まれました」
翌年、26歳となる朝清は放送の最先端を学ぶためアメリカのミシガン州立大学へ留学。そこで一人の女性と出会った。
■注目浴びた「アメリカ嫁」
留学当時は朝鮮戦争の休戦直後で、大学には多くの帰還兵がいた。退役軍人の教授もおり、授業中に「いかに愛国心があるか」という論議が繰り広げられることもしばしばだった。ある日、小柄でかわいらしい女性が手を挙げた。
「愛国心は戦場だけにあったものではない。あなたたちを支えた農民や工場労働者や一般市民にも愛国心がある」
後に朝清の妻となるワンダリーだった。3年ほどの交際を経て、2人は沖縄で結婚。当時珍しい「アメリカ嫁」は新聞にも掲載され、絶えず好奇の目にさらされた。
朝清の母ツルは那覇の公設市場へワンダリーを連れ出し、「これはうちの嫁だからね。アメリカ人だからと高値で売らないでよ」と紹介して回った。
米軍基地内の学校で職に就いたワンダリーもまた、基地内のコミュニティーとは一線を画して那覇での暮らしを大切にした。
ワンダリーにはこんな逸話もある。ベトナム戦争が本格化した60年代、沖縄は米軍B52爆撃機による北ベトナム空爆の出撃拠点となった。
沖縄統治の最高責任者だった高等弁務官のパーティーに夫婦で招かれたワンダリーは、毅然と高等弁務官に意見した。「B52というのが沖縄からベトナムへ向かうことについて、沖縄の人たちは心を痛めています」
反戦平和を貫き、是々非々の人だった。日本復帰直前の取材には「復帰はとてもいいことだと思います。でも同時にアメリカ軍のした良いことも思い出してもらいたい」といったことを答えている。朝清は「例えばインフラ整備もあるし、八重山のマラリア制圧なんかもそうでしょうね」と振り返る。
■自分は何者か
朝清とワンダリーの間には慈温、謙慈、慈英の3人の息子が生まれた。
長男の慈温(ジョン・カビラ)には忘れられない出来事がある。
小学生高学年の頃、社宅の改築工事にやって来た若い大工が兄弟に向かって「君らパンパンの子か」と言った。「パンパン」は米兵を相手にした街娼に対する侮蔑的な呼び名だ。
朝清はその若い大工をなじるでもなく静かに諭した。「例えそう呼ばれるような母親から生まれた子であっても、その子に責任はない」
朝清とワンダリーは、子どもたちに常にフェアであることを求め、「自分は何者なのかをしっかり持つように」と説いた。
朝清の父・朝平が「かぎやで風」を奏で、川平家に代々伝わってきた三線はいま、三男の慈英が受け継いだ。
明治から令和へつなぐ一家の証。朝清は言う。「子どもたちには沖縄の血とアメリカの血、二つの文化に誇りを持ってほしい。そして沖縄をよく知り、日本をよく知り、アメリカをよく知り、相互理解に努めてほしいと願っています」
(大城周子)
(文中敬称略)
全3回連載:「私の中に沖縄が」かなえた夢、静かな怒り 川平朝清さん(3)に続く
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