平和の礎に追加刻銘…無口な父「遠慮したかも」 広島での被爆語らず昨年他界


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平和の礎に追加刻銘された比嘉次郎さんの写真と被爆者手帳を前に、次郎さんの人柄を振り返る長男の通弘さん=9日、西原町内

 県は17日、糸満市摩文仁の平和祈念公園内にある「平和の礎」に、戦没者41人の氏名を刻んだ新たな刻銘板を設置した。礎には国籍や軍人、民間人を区別せず、沖縄戦や太平洋戦争などで亡くなった全ての人々の名前が刻まれている。今回で刻銘者数は計24万1632人になった。新たに刻銘された戦没者の遺族らは「生きた証しを残せた」「(追加の話を聞いたら)遠慮するかもね」などと話し、亡き親族への思いをはせた。

 「おやじが平和の礎への追加刻銘のことを聞いたら『しむさ(結構)』って言って遠慮するかもね」。広島市内で被爆し、昨年95歳で亡くなった比嘉次郎さんの長男通弘さん(69)=共に西原町=は、無口だった次郎さんの言葉を想像し、軽く笑みをこぼした。次郎さんの死後、県から連絡を受けた4人の息子が話し合い、追加刻銘を決めた。

 次郎さんの被爆者手帳には、横川町横川駅で被爆したと記されていた。広島市のホームページによると、横川駅は爆心地から約1・8キロ。原爆の熱線で駅構内の一画から火の手が上がり、数時間後に駅舎は焼失した。待合室にいた10人が生き埋めとなり、4人が救出されたという。

 当時、次郎さんは造船工場で働いており、宿舎から工場に出勤する途中で被爆したとみられる。凄惨(せいさん)な光景を目の当たりにしたはずだが、次郎さんは戦争のことを語らず、詳しいことは通弘さんも分からない。

 戦後、沖縄に戻った次郎さんはサトウキビを育て、建設の仕事もし、昼夜関係なく働いた。小学校しか出ていなかったが、新聞を読んで漢字を学んだ。50歳でオートバイの免許を取得し「こんな便利なものが世の中にあったのか」と喜び、畑で採れた野菜を子どもに配って回ったという。

 通弘さんは「無口で働き者で遊ぶことはしない、昔かたぎの人だった。原爆の被害を受けた人は全国各地にいる。(追加刻銘により)戦争で大量殺戮(さつりく)兵器が使われた事実を知らせる機会になる」と話した。
 (稲福政俊)