首里城地下の日本軍第32軍司令部壕の保存・公開に関し、1990年代に沖縄県の保存・公開基本計画を断念した稲嶺恵一元知事(87)が20日までに本紙のインタビューに応じた。当時は予算がないことと、危険性が理由だったと明らかにした上で「可能であれば、当然、保存すべきだ。少しずつでも保存・公開の方向に進むことが必要だ」との考えを示した。費用については「沖縄の中でみんなで実際にある程度の資金を集めること、そういう気持ちになって運動することで、他の組織も動いていく。機運をつくることが大事だ」と強調した。
32軍壕の保存・公開は、1997年に大田昌秀県政が基本計画を策定したが、98年に交代した稲嶺県政が断念した。その経緯について稲嶺氏は「(前知事の)大田さんが積極的に平和・文化に力を注ぎ、平和の礎、資料館、公文書館などを建造したため、就任当初、財政当局から『金庫は空です。新規事業はできません』と言われた」と予算面が理由だったとした。
崩落の危険性も指摘され、「とてもできないという思いがあった」とも述べた。当時は技術的に難しかったが、現在の技術で可能ならば進めるべきだとの考えも示した。
稲嶺氏の前任知事に当たる大田氏は、沖縄戦に鉄血勤皇隊として動員され、過酷な体験をした。知事選で争った相手が建設し、行財政のひっ迫を生じさせた平和の礎について「長い目で見たら建設して良かった。沖縄の平和の心を表している。自分たちだけではなく、敵も味方も民間人も全ての犠牲者を刻銘し、同じように悼んでいる施設は世界にも他にない。大田さんの思いが凝縮された」と高く評価した。 (中村万里子)