ラムズフェルド氏がこだわった普天間移設「実現可能性」はいま<記者ノート>


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米軍普天間飛行場(資料写真)

 それはいつも、常連のアメリカメディアの質問が一巡してから始まった。

 五角(ペンタゴン)の形をした米国防総省の中をぐるぐる回った先にある記者会見室。記者席の前方1、2列目は、米ネットワークのFOXやABCにCNN、AP通信の名札が貼られた固定席になっている。米記者たちがひとしきり、泥沼化していたイラク戦争について質問するのを聞いた後、海外メディアに質問の機会が回ってくる。

 いつも眉間に深くしわを寄せ、眼光鋭く記者を指さしていたラムズフェルド国防長官に直接質問できる場だ。2005年の在日米軍再編協議のさなか、米メディアからその関連の質問はなかなか期待できない。日本の、それも沖縄からの記者が聞かないと、米軍普天間飛場の移設先の議論について、長官本人の言葉は引き出せない。

 沖縄の米軍基地関連の質問を投げるとラムズフェルド氏は、記者に対して孫をあやすように、日本政府の決定だと繰り返していた。質問を重ねて米側の認識を問うたが、煩わしそうに軽くいなすばかりだった。一度、野外のイベントで接する機会があった。にこやかに握手したラムズフェルド氏の手はとても柔らかかった。記者が手を握りながら「沖縄について聞きたい」と問いかけると、表情を一変させ、ぷいとよそを向いた。

 ラムズフェルド氏にとって「沖縄」とは、普天間飛行場上空から見た危険性を認識させられた島だったか。それとも来沖して県庁で会談した稲嶺恵一知事(当時)から執拗(しつよう)に基地負担軽減を求められ、苦虫をかみつぶしたような表情で感じた島だったか。経緯はいろいろあっても合意したものは実行あるのみという姿勢を貫き、それを日本側に求めた。沖縄県民の声に耳を傾けるという兆しは最後まで感じられなかった。

 「何が何でも(日米)合意を実現しなけばならない」と、普天間飛行場移設計画の「実現可能性」という言葉を繰り返し強調したラムズフェルド氏。しかし日米両政府が合意したはずの辺野古移設計画は迷走をたどり、今なお完成していない。

 現在、防衛省の沖縄防衛局が大浦湾に広がる軟弱地盤の存在を受けて、埋め立ての設計変更を沖縄県に申請しているが、「実現可能性」にこだわったラムズフェルド氏は現状をどう見ているのだろう。

滝本 匠 デジタル推進局長 (元ワシントン特派員)