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焦土にこそ希望 食で支えたバイタリティー オキハム会長・長浜徳松さん(1)<復帰半世紀 私と沖縄>


この記事を書いた人 Avatar photo 大城 周子
沖縄の現状や課題について語るオキハムの長浜徳松会長=6月28日、読谷村座喜味の同社

 アジア太平洋戦争まっただ中の1944年。後に「沖縄ハム総合食品」の会長となる長浜徳松(91)は沖縄を飛び出した。「少年飛行兵になる」と志し、国家のため、天皇のために死ぬことを信じた。だが、日本は戦争に敗れた。
 終戦後、大阪から沖縄に帰ると、食べるだけでも苦労する生活が待っていた。「食べるものがないなら自分で作る。農業をやる」。戦後そして日本復帰後の沖縄県民を食で支えた長浜。逆境を恐れない進取の気性には原点があった-。

 沖縄本島北部の本部町浦崎で生まれ、謝花尋常高等小学校に通った。「奇抜で元気な教頭先生がいたよ」と懐かしむ。卒業すると飛行兵を目指したが、身長が低いことが理由で工場勤務となり、戦闘機の部品製造を手掛ける滋賀県の近江航空工業に勤労少年として徴用された。
 この年の10月には「10・10空襲」があり、翌45年3月に沖縄戦が始まった。簡単には帰れないと思い、7月には中国東北部の満州飛行機製造場で働き「終戦」を迎えた。
 国のため、天皇のためにと死ぬことを恐れなかったが、それはまやかしだったと気付いた。そして今ではこう思うようになった。「『終戦』というごまかしもよくない。『敗戦』だと、ありのままを伝えるべきだ」

 敗戦から1年後、満州から大阪へ。帰国することはできたが、米占領下となった沖縄へは容易に渡航できず、47年6月にようやく沖縄に帰れた。沖縄戦で焦土と化したふるさと。生活必需品や食料品は乏しく、復興の途上に差しかかったばかりだった。
 仕事もなく、軍作業に従事する若者も多い中、長浜は荒廃した土地そのものに希望を託した。

(文中敬称略)

(仲村良太)

 

(その2)城は守ったら攻められる…「苦しめられたもの」に託す未来