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城は守ったら攻められる…「苦しめられたもの」に託す未来図 オキハム会長・長浜徳松さん(2)<復帰半世紀 私と沖縄>


この記事を書いた人 Avatar photo 大城 周子
日本復帰から現在までを振り返り、沖縄の現状や課題について話すオキハムの長浜徳松会長=6月28日、読谷村座喜味の沖縄ハム総合食品

焦土にこそ希望 食で支えたバイタリティー オキハム会長・長浜徳松さん(1)<復帰半世紀 私と沖縄>からつづく

 戦後、ふるさとの本部町浦崎に帰った長浜徳松(91)はコメやイモ、麦などの自給自足の農業を始めた。

 ただ田畑を耕すだけではなかった。周囲を見つめ、沖縄の社会情勢の変化を捉えた。「物事は原理原則。不合理なことをやると失敗する。必要なことは時代とともに変わった」。1次産業にとどまらず、食品を製造する2次産業に活路を見いだした。

 イモを作っていたころには米軍払い下げのエンジンを活用した機械でデンプン加工を開始、農家が米や雑穀を街へ運んでいる様子を見て「精米・製粉・押麦加工工場」を設立し、加工を手掛けた。

 ただ、時代は「アメリカ世」。低い関税で安い外国産の穀物が輸入された。多くの生産農家は換金性の高いサトウキビに転換せざるを得なかった。長浜はそこでも2次産業化を図り、1956年4月に自営で「浦崎共同製糖工場」を始めた。

 軌道に乗った製糖工場の買収話が持ち上がった。当初は6千ドル、その後1万ドルに増額されたが、長浜は拒否し続けた。交渉が進まず圧力も掛けられたが、最終的に北部製糖に4万5千ドルで事業を売却した。次に目を付けたのは県民食・豚肉だった。

1953年ごろ、精米工場前で自転車に手を置く長浜徳松さん(左端)=回顧録「わが人生に悔いはなし」より

■同業者は「金もうけの友だち」

 「沖縄と言えば豚肉文化。だけど全然足りない」。売却で得た資金を元手に1万3000平方メートルの土地と豚千頭を購入し、大規模な養豚業に参入した。

  「鳴き声以外は全て食べる」と言われる豚肉は沖縄の食卓に欠かせない。それでもかつては正月などの特別な日にしか食べられなかった。「そんな日でも農家5、6軒で一頭買ったね。残った肉は塩漬けにしたよ」と長浜は振り返る。1961年には「本部畜産」を創業。当時、豚肉の需要は右肩上がりで増えていた。

 一方、飼料価格の乱高下や伝染病の影響をじかに受け、飼育数や食肉処理数の増減は豚肉の価格に影響した。仕事をしていると、どうしても政治にぶつかった。

 65年に本部町議に初当選すると、養豚業の経営安定化や畜産行政の改善に取り組んだ。 当時の沖縄は復帰運動真っ盛り。一方、長浜は自らの道で復帰に向けて備えた。北部養豚組合連合会組合長や県北部食肉センター社長などを歴任。さらには県内の食肉処理業者7社をまとめ、県食肉連絡協議会の設立に尽力した。

 衛生管理を徹底し、安定した畜産体制や食肉流通形態を確立。価格安定に向けた礎を築いた。 「同業者はけんか仲間でもあるけど、金もうけの友達だわね」。「ヤマト世」を迎える中、本州と同様な食肉流通形態を構築し、県民が安定的な価格で豚肉を購入できるように力を注いだ。

サトウキビを圧搾した後に出るバガスの前でバイクに腰掛ける長浜徳松さん(左)=浦崎第二製糖工場前(回顧録「わが人生に悔いはなし」より)

■ソーキ汁、てびち…琉球料理をレトルトに

  「城は守っていたら攻められる。自分から攻めていかないと」。日本復帰後、県内には低い関税で輸入された外国産のハムやソーセージなど畜産加工品が入ってきて、県内の畜産農家は苦境にあえいだ。

 長浜は県に「本土並み」の規制を求めた。復帰から5年が経過した77年。規制後の安定供給も目指し、苦境にもまれながら、食品製造を手掛ける沖縄ハムを名護市に設立した。3年後には大阪営業所を設置し、県外にも販路を築いた。

 産みの苦しみを味わいながら、81年12月にはその後本社を移すことになる読谷村に読谷工場を設置し、沖縄ハム総合食品に社名を変更した。「ソーキ汁」「てびち」「中味汁」など琉球料理のレトルト食品を製造する新事業に着手。厳しい状況を乗り越えながらも、共働き世帯の増加や県での需要は伸び、沖縄経済と共に成長した。

名護さくら祭りで牛のオブジェを先導する長浜徳松さん(左端)=回顧録「わが人生に悔いはなし」より

 そんな沖縄ハムの社是には、激動の時代を歩んだ長浜の思いが込められている。

 「私は、沖縄県民であることを自覚し、誇りに思っています」「私は、沖縄県が経済的に他府県に追いつき追い越すことを誓います」。最初の二つに会社は出てこない。

 最後の三つ目で「私は、沖縄ハム総合食品株式会社が、その担い手であることを自覚し、頑張ります」とあるだけだ。「当然さ。ウチナーンチュだから」。沖縄を思う長浜は率直にこう語った。

■「沖縄だからこそ」描く未来図

 沖縄の自主自立を目指す長浜の思いは復帰から50年を迎えようとする中でも変わらない。それどころか、これまで苦しめられた「低い関税」を逆手に取って、島の未来図を描いている。

 沖縄では県産品を愛用する県民が多い一方、価格面では外国産の穀物や食肉などが優位に立つ。長浜はアメリカ世でも、ヤマト世でも、農業から畜産、製造業に進出する中でも、低く抑えられてきた関税に苦しめられてきた。

 「とにかく関税を下げる。これは沖縄だからできる」。長浜は辛酸をなめさせられた関税こそ今後の沖縄の命運を握るとみる。

 関税を下げて、アジアの主要都市との地理的優位性を生かし、貿易拠点としての価値を一層高め、観光と貿易の2本柱で経済的自立を目指す。そのために「沖縄は一国二制度を徹底的に追求するべきだ」と何度も繰り返した。一国二制度は小さな島だからこそ実現できると主張する。

豚と牛のオブジェ周辺に集まる社員ら=読谷村座喜味の沖縄ハム総合食品本社前=回顧録「わが人生に悔いはなし」より

 本部町議を3期、本部町長を1期務めて98年に退任した後は政治の一線から身を引いた。

 だが2014年6月、その年の知事選の候補者として那覇市長(当時)の翁長雄志を推す経済界有志の一人として県庁で記者会見に出席。再び政治の表舞台に立った。 「政党とかじゃない。ウチナーンチュとしての政治ができると思った」。長浜はそう振り返る。

 出馬表明前の翁長と共に食事し、打ち解けた。謝花校時代に出会った「奇抜で元気な教頭先生」は翁長の父・助静だった。縁を感じた。 「イデオロギーよりアイデンティティー」を掲げ、米軍普天間飛行場の移設に伴う名護市辺野古への新基地建設の阻止を訴えて、知事となった後、志半ばで死去した翁長。長浜は翁長の政治姿勢に共感した。

 「僕がずっと言っていることにつながる。経済的な自立、独立の一歩手前だ。僕がもっと若ければ大声で叫ぶのに」

 沖縄戦から日本復帰。台所から政治の舞台裏まで。時代に翻弄(ほんろう)されながらも沖縄と共に生きた。逆境をはねのけ、チャンスに変えてきた長浜。今も新たな沖縄の姿を夢見る。

(文中敬称略)

(仲村良太)

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