疎開でつながった命と縁…大分の家族と孫の代でも 「戦争なければもっとよかった」


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上原一家と菅一家の交流をまとめた冊子を眺め、戦争当時を振り返る高良恵美子さん(左)、照屋春子さん(右手前)、戦後生まれの妹・赤嶺百合子さん(右奥)=13日、浦添市

 日本の敗戦から76年。戦前、小禄村(現・那覇市)と那覇市西新町に暮らしていた高良恵美子さん(83)=那覇市=と照屋春子さん(81)=浦添市=ら上原一家は地上戦が迫る沖縄から大分県荻村(現・竹田市)に疎開した。地元の菅(かん)さん一家の助けもあり、戦禍を生き延び1945年8月15日を迎えた。その2年後、疎開先から戻ると小禄の自宅があった土地は艦砲でえぐられてまるで池。残った祖父ら他の家族は全員亡くなっていた。

 「逃げ込んだ墓から出てくると周りは丸焼けだった」。44年10月10日、養豚業を営んでいた父・上原蒲重さんらと西新町で暮らしていた春子さんは幼い頃に那覇市などを襲った「10・10空襲」の記憶をたどる。祖父らと小禄にいた恵美子さんも無事だったが、西新町では豚舎が残った程度で、ほとんど壊滅状態だった。

沖縄に戻る前の上原さん一家と菅さん一家や近所の人ら。前列白のスカートが照屋春子さん、白い着物が菅芙美子さん、その左が高良恵美子さん=1947年(菅さんの妹・川上貴子さんがまとめた冊子より)

 そこで蒲重さんは家族で疎開することを決意したという。蒲重さんが養っていた豚は日本軍にとられ、代金を求めると日本兵に「鹿児島で払ってもらえ」などと言われ、疑うと軍刀を抜かれて脅されたという。話を聞かされた恵美子さんは「あんなして戦争ってあるかね。考えられん」と目頭を押さえた。

 45年2月、親族も加え10人を超える上原一家は九州に向かう船に乗った。一緒に乗っていたのは傷を負った兵士や遺骨だったという。疎開先は熊本県の阿蘇山に近い大分県荻村の恵良原という集落だった。

 集落は山々に囲まれ自然豊か。幼い子どもたちにとっては戦禍にもまれた沖縄とは異なり、新鮮に映った。「ナシやスモモをもぎって食べた」「盆踊りや祭りもあった」。恵美子さんと春子さんは笑顔で当時を振り返った。からかわれたこともあったが「沖縄空手をやっている」とうわさが広がると、それもなくなった。

 上原一家が世話になったのは菅重徳さん一家。休耕地を使わせてもらい、地域の伝統行事にも参加した。春子さんは菅さんの孫で同い年の芙美子さん(80)の遊び相手となり、家族ぐるみの付き合いとなった。47年に上原家が沖縄に戻る前にはみんなで一緒に記念撮影したほどだった。

 沖縄に帰って来るとふるさとは焼け野原に。残った祖父やおばら家族は戦争の犠牲になった。

 疎開したことで命をつないだ上原一家。戦後も菅さん一家とは家族のようにつながる。復帰前からパスポートを使って双方を家族が訪ねるなど、戦後生まれの子や孫、世代を越えた交流が今も続く。戦争による出会いだが、春子さんも芙美子さんも「戦争さえなければもっと良かった」と同じように語った。

(仲村良太)