うるま市与那城宮城にお住まいの根保幸徳さん(87)から体験記をいただきました。根保さんは生まれ育った宮城島で沖縄戦を体験しました。島では激しい地上戦はありませんでしたが、集落を狙った空襲と食糧不足に苦しみました。
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根保幸徳さんは1933年9月、与那城村(現うるま市)宮城島の東部に位置する宮城集落で生まれました。父の清秀さんは幸徳さんが生まれる直前、兄のいるペルーに渡航し、祖父母や母、いとこの5人で暮らしていました。
根保さんは宮城集落にあった宮城尋常高等小学校に入学しました。
《私が宮城尋常高等小学校に入学したのは1940(昭和15)年で、軍事大国化した日本は翌年の12月8日、太平洋戦争に突入した。
小学校にも軍国主義、皇民化教育の波が押し寄せ、教科は国史や修身が重要視され、軍歌調の音楽が多くなった。
校長訓話や担任の話も神国日本、鬼畜米英、一億一心、大東亜共栄圏などの話、戦死した兵士を軍神化し、「君たちも大きくなったら立派な兵隊さんになれ」と鼓舞されて、いやが上にも戦意高揚を教え込まれた。
「四大節」が仰々しかったことも、今思えば奇異である。》
「校長の訓話でアメリカやイギリスとの開戦を知りました。これまでも中国と戦争をしていましたが、これほど大きな戦争になるとは思いませんでした」と根保さんは語ります。
※注:根保幸徳さんの「徳」は「心」の上に「一」