軍歌聴きながらイモの昼食 根保幸徳さん 島の戦争(12)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 慶田城 七瀬
2012年に廃校となった宮城小学校の跡地に残る記念碑

 根保幸德さん(87)=うるま市=が通っていた宮城尋常高等小学校(1941年に宮城国民学校に改称)は軍国教育を徹底していました。児童に天皇の写真を収める「奉安殿」を拝むことを求めました。

 「教室の隅にある奉安殿を開けるのは、四大節(四方拝、紀元節、天長節、明治節)の時でした。中に『御真影』が飾ってありました。奉安殿には教育勅語も納めていました」

 軍歌を聞き、防空訓練を繰り返す中で、戦争が近づいていることを感じます。

 《1943年頃から学校敷地内に「待避壕」が造られるようになった。昼食も運動場の中に置かれた蓄音機から流れる軍歌を聴きながら食べた。防空訓練が頻繁に行われ、子ども心にも戦争が身近に迫っていることが感じられた。》

 昼食というのは家から持ってきたイモのことです。根保さんら児童は運動場でイモを食べながら、蓄音機で軍歌を聴きました。

 「毎日聞いたのは『海ゆかば』でした。『愛馬進軍歌』や『出征兵士を送る歌』もありました。曲名は忘れましたが、歌詞を覚えている歌もあります。それだけ軍国教育が凄かったということです」

 「愛馬進軍歌」の作曲者は新城正一。恩納村の出身で、沖縄師範学校で宮良長包と出会い、東京武蔵野音楽学校で学んだ作曲家です。恩納村歌や恩納小学校歌も作曲しました。

※注:根保幸徳さんの「徳」は「心」の上に「一」