空襲備え防空壕づくり 根保幸徳さん 島の戦争(13)<読者と刻む沖縄戦>


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根保さん家族は宮城集落の東側にある崖下の壕に避難した

 根保幸德さん(87)=うるま市=が住んでいた宮城島でも空襲に備え、学校以外でも防空壕の構築が始まります。

 《島でも1943年頃から米軍の空襲に備えて、班単位や親戚などで避難壕(防空壕)づくりが始まった。宮城島は地形上、多くのガマ(鍾乳洞)があり、崖の下部はクチャ(泥岩層)になっているので、横穴を掘って壕にした。

 私たちも家族5人(祖父母、母、従弟、私)で数カ月かかって、集落の東の崖下にクチャの避難壕を掘った。》

 根保さんら家屋はつるはしを使って崖の下の壕を掘って空襲に備えていました。10・10空襲の時はこの壕に避難しています。

 44年以降、日本兵が駐屯するようになります。

 《1944年6月、日本軍山部隊(第24師団)が宮城島に派遣され学校に駐屯したが、2、3日して引き揚げた。8月になって再び宮城島に小部隊が駐屯。しかし、10月10日の空襲でも日本兵からの警報から発せられたのは、本島の空襲が始まって後のことである。

 12月になって、宮城島、伊計島の駐屯兵は引き揚げて、伊計島出身の一個分隊だけが置かれた。》

 「沖縄県史」によると伊計島に配備されたのは金武湾一帯を監視する「特設警備伊計島分隊」です。45年4月の米軍上陸時、宮城島、平安座島、浜比嘉島には日本軍が駐屯していませんでした。