戦争準備に明け暮れる 根保幸徳さん 島の戦争(14)<読者と刻む沖縄戦>


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出征兵士を見送った宮城島のハギドゥマイ浜

 戦争が近づき、根保幸徳さん(87)=うるま市=が住んでいた宮城島の生活は変化していきます。

 《島の多くの男性は徴兵や防衛隊として召集された。島に残っている男性や女性たちも、沖縄本島の飛行場造りなどに徴用され、過酷な労働を強いられたと聞いた。私の祖父(三良さん、当時58歳)も数回徴用されている。

 男性は「警防団」を組織して空襲の対応に当たり、婦人会や女子青年団は出征兵士の家庭の家事の世話や、兵士に送る「慰問袋」に入れる品物(日用品、「千人針」、お守り、手紙)の準備に明け暮れた。》

 「警防団」は島を守るための組織です。宮城国民学校に通う根保さんら児童生徒の役目もありました。

 《児童生徒も高等科2年をリーダーとして、朝起き作業(集落内清掃)などの団体行動が日課となった。出征兵士がいると、児童生徒や住民の多くが島の南の浜(ハギドゥマイ浜)まで行って見送った。》

 宮城島に駐屯していた日本軍が1944年12月に引き揚げる前、松の木で作った模擬高射砲をあちこちに設置しました。

 「アメリカの飛行機に爆弾を落とさせ、消費させようとしたのでしょう。今思えば幼稚な考えです」と根保さんは語ります。

 後に警防団は「これがあると標的となり、部落が爆撃されて住民が犠牲になる」という理由で模擬高射砲を撤去したといいます。

※注:根保幸徳さんの「徳」は「心」の上に「一」