宮城島の集落、空襲被害に 根保幸德さん 島の戦争(16)<読者と刻む沖縄戦> 


この記事を書いた人 Avatar photo 上里 あやめ
宮城島北部の海岸近く。対岸に伊計島が見える

 1944年の10・10空襲は宮城島の住民にも衝撃を与えます。根保幸徳さん(87)=うるま市=の家族5人は集落近くに作った避難壕に隠れていました。

 《対岸の伊計島近くの海に止まっていたマーラン船に爆弾が落とされ、その爆風が轟音と共に私たちの壕まで届き、入り口にいた祖母はびっくりして壕の中に逃げ込んだ。空襲の怖さを見せつけられた。》

 隣の平安座島では10・10空襲で集落が焼かれ、マーラン船が沈められます。

 《祖父はここは危ないからと、別に自然壕を探して移った。ホージガマといわれる幅4メートル、長さ30メートルほどの天井の低い息苦しいガマであった。

 1945年2月から3月の空襲では、このガマで3世帯(後に2世帯10名)が昼間の空襲から身を隠していた。学校、製糖工場や上原、宮城、池見集落を空爆する米軍機の低空飛行経路が近く、ガマの中まで爆音が響きわたった。》

 空襲の最中、祖父の三良さんはガマの茂みに隠れて集落が攻撃される様子を見ていました。ある日、三良さんが「いったーんかい、戦(いくさ)みしらや」(空襲の様子を見せてあげよう)と誘いました。

 《爆撃機が南の方から低空飛行し、爆音をとどろかせて私たちの頭上を通り過ぎて製糖工場や学校、民家に爆弾を投下して、北の空に飛び立っていくのを身震いしながら目撃した。》

 空襲の激化で、宮城島では犠牲者も出ています。

※注:根保幸徳さんの「徳」は「心」の上に「一」