1945年4月1日、米軍が沖縄本島の中部西海岸に上陸しました。2日夜、ボートに乗った米軍の斥候十数人が偵察のため、ひそかに宮城島と伊計島に上陸しました。
3日、具志川村(現うるま市)昆布から来た米軍の戦車隊が宮城島の北部に上陸。さらに平安座島、浜比嘉島にも上陸し、住民に投降を呼び掛けました。
米軍機の空襲が続いていたため、根保幸徳さん(87)=うるま市=ら家族を含む宮城集落の住民は、集落近くのガマに避難していました。
《4月3日、米軍が具志川村昆布から水陸両用戦車で島の北のトゥンナハ浜に上陸した。米軍上陸の情報で島の住民は大騒ぎになった。
アメリカーは野蛮で、上陸したらどんなことをされるか分からないと言われていた。
私たち家族は壕を出て、島の南東のンダカチナ浜の崖下に避難するつもりだった。他の家族も大勢来ていた。しかし、東の太平洋には数隻の米軍艦が停泊していたので、ここも危ないと自分たちの壕に引き返した。夕方になって米軍は引き揚げたと知った。》
「トゥンナハ浜は深くて上陸に適していることを米軍は知っていたのでしょう」と根保さんは語ります。
「沖縄県史」には伊計島に駐屯していた日本軍が米軍への斬り込みを計画したものの、住民が巻き込まれることを恐れ、斬り込みを思いとどまったという証言があります。
※注:根保幸徳さんの「徳」は「心」の上に「一」