食料探しの住民を米兵が殺害 根保幸德さん 島の戦争(21)<読者と刻む沖縄戦>


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現在の平安座集落。戦後、人口が急増し、「平安座市」が置かれた

 米軍の命令によって宮城島や伊計島の住民が集まった平安座島は人口が膨れあがります。根保幸徳さん(87)=うるま市=は「小さな集落に、人がぎゅうぎゅう詰めになった」と語ります。食料も不足しました。

 《平安座には宮城島、伊計島のほか、屋慶名の一部の住民も来ていたので、大きな家では10世帯ほどがひしめき合って住んでいた。

 食料は米軍からの配給だけでは足りないので、干潮時に私も大人と一緒にタカタ(現在、海中道路)を歩いて勝連半島まで行き、イモや穀物などを「失敬」した。》

 1945年9月に米軍が出した「地方行政緊急措置要綱」で「平安座市」が生まれます。人口は約4千人になりました。

 《宮城島には決められた日に渡り、農作物の他に、山野に放された豚やヤギを取って肉だけ持ち帰った。それでも食べ物が足りないので、中には夜間にサバニで宮城島に渡る人もいたという。》

 食料探しは危険が伴いました。宮城島に渡った若い女性が米兵に射殺されるという悲劇もありました。

 7月、米軍の命令で児童が集められ「平安座公立学校」が開校します。

 《学校は米軍に接収されていたので、民家の軒下やフクギの木陰で勉強した。勉強といっても教科書などはないので、かけ算九九の暗記やローマ字、簡単な英会話を習うだけだった。》

※注:根保幸徳さんの「徳」は「心」の上に「一」