西の空に黒煙が立ち上っていた。「ドカーン」と爆発音が鳴り響いた直後だった。
友達と家の近くの海で泳いでいた当時7歳の幸地達夫は不安がよぎり、煙が上がる方向の港へと走った。
その日、伊江島の港には父の良一がいた。本島で亡くなった戦没者の遺骨を連絡船で伊江島に持ち帰る人たちを、米軍のトラックで家まで送るためだった。
港に着くと、母サダが泣きながら叔父とリヤカーを引いていた。リヤカーには頭も手足もない父の遺体があった。
1948年8月6日。米軍弾薬処理船(LCT)が爆発し、107人が亡くなった事件で達夫は父を失った。
35歳だった父は、米軍雇用員として通訳をしていた。勉学が得意で、集落の寄付で上京して英語を学んだ。日本軍の通訳を経て戦後は沖縄に戻り、米軍で働いた。一方、沖縄で農協の立ち上げに携わるなど、戦後復興にも心血を注いでいた。
戦後すぐの貧しい時期だったが、達夫はベッドで寝るほど暮らし向きは豊かだった。それが父の死で一気に暗転した。サダは4人の子を抱え、一家はネズミを捕って食べるほど生活が苦しくなった。
父の死から2年後。米軍が「子ども1人であれば面倒を見られる」と打診してきた。次男だった達夫が行くことになった。石川市東恩納(現うるま市)にあった米軍弾薬部隊の宿舎で暮らし、トラックに乗って読谷村の小学校に通った。米兵たちはまるで家族のように達夫の面倒を見てくれた。ただ「タツオ」が発音しづらいという理由で「ジミー」というニックネームで呼んだ。
達夫は基地内で靴磨きのアルバイトをし、当時の教員の給与の2倍ほどを稼いだ。そのお金を伊江島の家族に仕送りした。
その後、米国人の養子となり名前は「シュワルツ(主和津)・ジミー」に。自らも米軍で働くようになり、高等弁務官の一等特技官などを務めた。
81歳になった今も、ウチナーンチュと米国人のはざまで生き続けている。
(文中敬称略)(島袋良太)
1972年に沖縄が日本に復帰してから来年で半世紀。世替わりを沖縄と共に生きた著名人に迫る企画。今回は、復帰前の高等弁務官一等特技官などを務めた主和津ジミー(幸地達夫)さん。ウチナーンチュと米国人のはざまで主和津さんが抱いてきた思いに迫る。