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「沖縄人で米国人」葛藤と使命…語り継ぎ、木を植える 主和津ジミーさん・元高等弁務官側近(2)<復帰半世紀 私と沖縄>


この記事を書いた人 Avatar photo 大城 周子
(右から)主和津ジミーさん、母のサダさん、フェルナンド・T・アンガ-高等弁務官=1968年

(その1)達夫から「ジミー」へ 米軍船爆発で父を失い一変から続く

 伊江島の港で起きた米軍弾薬処理船(LCT)爆発事件で父を失った幸地達夫。米軍宿舎での生活が始まった。

 米軍基地内の宿舎で暮らす中で、達夫には同年代の友人もできた。特に一つ上のダンと二つ下のテオの兄弟とは仲が良く、2人の家にも遊びに行った。だが16歳のころ、ダンとテオの家族は米国に帰任することになった。2人の父は空軍兵で、牧師でもあったラッセル・シュワルツ。一家と食事をしている時に、ラッセルが言った。「ジミーも一緒に米国に来ないか」。達夫はシュワルツ家の養子となり、ミズーリ州に渡った。「シュワルツ(主和津)・ジミー」としての人生が始まった。

 米国で衣食住に不自由なく暮らしたが、遠く伊江島に残る家族のことは気掛かりだった。父は反対したが、ジミーは高校を卒業する前に米陸軍に入隊することを決めた。軍人となったジミーは故郷沖縄への赴任を希望したが、最初の赴任地は韓国だった。その後、ハワイへの駐留を経てベトナム戦争を2度経験する。

米兵らの記念写真の最前列に写る主和津ジミーさん(Tatsuo Jimmyと書かれている少年)

 最初のベトナム行きは1964年。ヘリ部隊の地上戦闘員として3カ月間派兵された。爆発音をすぐ近くで何度も聞いた。腕や脇腹には爆発で飛び散った破片が当たった傷跡が残り、今も耳の聞こえづらさを抱える。

 2度目のベトナム派兵は66年。現地の戦況を記録して米本国に報告する任務で、1年を過ごした。ホーチミンで入った日本食レストランでたまたま隣り合わせた沖縄出身の報道写真家、石川文洋さんに出会い、戦地での同行撮影をコーディネートしたこともあった。

■燃える車両、民衆の怒り

 米軍で働きながら高校卒業資格や大学で学ぶ資格も取得し、あらゆる技能を磨いた。

 大きな転機は2度のベトナム派兵を経た後の念願の沖縄転勤だった。67年2月14日。故郷はとても寒い日だった。ジミーは嘉手納基地に戻り、米国統治下の沖縄で「最高責任者」だったアンガー高等弁務官の一等特技官として働くことになった。

 一等特技官に応募したのは34人で、ジミーは選ばれた3人のうちの1人となった。採用面接でジミーは訴えた。「私はウチナーンチュだ。弁務官が沖縄のために一生懸命やっていることを知っている。私に何かできるのならば、1日4時間の休みで構わないので採用してほしい」

 3カ月の試用期間を経て採用されたジミーは、アンガーの離島などへの視察にも同行した。各地の区長や住民からインフラや道路整備などの要望を聞き取り、当時の「弁務官基金」での整備を調整した。故郷である伊江島のインフラ整備にも携わった。「沖縄人でも米国人でもある自分の立場だから、できることもあると思った」  一方、自らのアイデンティティーのはざまで、胸が締め付けられることも多かった。アンガーの後任として69年に就任したランパート高等弁務官時代の70年12月には、コザの街で民衆が米軍の車両を次々と焼き払う「コザ騒動」が発生した。

 米軍関係者による事件・事故、相次ぐ米軍関係者への無罪判決、毒ガス貯蔵問題などに対する県民のフラストレーションが爆発した事件だった。ジミーは「デモを見るたびにつらかった」と吐露する。

「コザ騒動」で燃える米軍関係車両=1970年12月20日未明、コザ市(現在の沖縄市)

■米国の制服を着たウチナーンチュ

 コザ騒動の現場をランパートと隠密で視察した。騒動の後に「こういうやり方は『ジャングルのおきて(the law of the jungle)』である」と、県民向けに非難声明を出したランパート。一方、そばにいたジミーには「ついにその時が来たな」という反応を見せていたという。

 緊張の中の米国統治は限界を迎えていた。「自分はウチナーンチュでもあるが、米国人でもある。米国の制服を着け、高等弁務官のために働いていた。両方のことを考えながら『とにかく、いい方向に行くように』と毎日お祈りしていた」と振り返る。

 68年11月に琉球政府の行政主席公選が初めて実施され、日本復帰を唱える屋良朝苗が当選したときから、復帰は目の前だとジミーは考えていた。ランパートは自宅に屋良を招いた。ジミーがニューヨークやハワイ、ロサンゼルス、シカゴなどの映像を上映し、米国市民の暮らしを紹介した。「弁務官は屋良さんに、米軍以外の米国の側面も知ってほしかったのだろう」と推し量る。

 復帰が決まった時には「これからどうなるのだろう」と漠然とした不安を抱えたという。だが、復帰後は「日本政府の力もあり、米国統治時代に比べて民政もだいぶ良くなった。復帰したのは本当に良かった」と感じている。「例えば復帰前は米軍が銀行株の51%を持っており、資金に上限があって特別な人しか住宅ローンを組めなかった。今は真面目に働いていれば、ローンを組んで生活設計もできる。何でも米軍が管理していた時代とは違う」

主和津ジミーさん(左から2人目)とジェームス・B・ランパート高等弁務官(右端)ら=1970年、伊江島

 ■違う人生も…

 弁務官事務所での勤務時代に沖縄出身の妻郁子(78)と結婚した。復帰を挟んで米軍を退役し、沖縄に生活の拠点を置くことを決めた。

 以降、「制服組」ではない米国防総省の職員として嘉手納基地で勤務し、渉外業務などに長年携わってきた。今年5月、その仕事を退職した。郁子との間に生まれた3人の子どもは成人し、今は孫もいる。

 父の命を奪ったLCT爆発事件から68年目の2016年8月6日。ジミーは伊江港にある慰霊塔の前にいた。隣には長女メアリーの姿もあった。「子や孫に『どうしておじいちゃんは米国人なの』と聞かれた時に、事故のことをしっかり語り継いでいかなければならないと感じた」

犠牲となった父の遺影を持ち、慰霊祭に出席した主和津ジミーさん(中央)と娘のメアリーさん=2016年8月6日、伊江港

 ジミーは伊江島の小学校などで、子どもたちにLCT爆発事件を語り継ぐ語り部としての活動を続けている。

 父の命を事故で奪ったのは米軍だった。父を失ったジミーを援助したのも米軍だった。自ら米軍に入り、独特の立場で沖縄との関係を築いてきた。

 一方、復帰50年を迎えようとする今も、沖縄への基地集中は変わらず、基地や戦争への反対運動は続いてきた。

 「北東アジアの情勢を見る限り、基地が今すぐ返還されるとは思わない。だが反対という人もいる。その中で私も悩んでいた」。基地に声を上げる人たちへの思いに慎重に言葉を選びつつ、こう続けた。「日本があの戦争を始めなければ状況は違ったかもしれない。米国の家族にはとても感謝しているが、あの戦争がなければ父が死ぬこともなかった。父も大きな仕事をしていた人だった。家族は豊かに暮らし、高い教育を受け、別の人生があったのかもしれないと想像して苦しかった日もある」

■3千本の「平和のシンボル」

 平和世を想像し、いつか基地が返還される日を見据え、ジミーは基地内に植樹を続けてきた。さまざまな関係者からの支援を得ながら、嘉手納基地の中に3千本以上を植樹してきた。

 「緑は平和のシンボル。全ての人が穏やかな気持ちになれるように」。そして「戦争でまた沖縄の人たちがソテツを食べることのないように」と願いながら、ソテツも植えてきた。「軍人だって戦争には反対だ。家族を失うかもしれないし、両方とも苦しい。だが欲望がある限り、きっと戦争はずっと続くのだろう」。今も葛藤はにじむ。

 今年5月に基地の仕事を退職したジミーは、81歳になってまた新たな人生を歩む。「まだ元気なうち」に残された使命を果たすつもりだ。週に1度は学校生活や家庭の事情に困難を抱える児童生徒の支援施設に通い、物心共に支援活動を続けている。

 「自分がさまざまな人に助けられたことを今の子どもたちに返していきたい。これからの人生は自分のため、沖縄のためにいろいろなことがしたい。リタイアというより、これからの方がハードだ」

 米軍に引き取られて伊江島を出たころ、母サダから「人を助けるような人になれ」と言われた。今はその言葉を実行したいと考えている。

(文中敬称略)(島袋良太)

自身の半生を振り返る主和津ジミーさん=2021年9月7日、北谷町(ジャン松元撮影)

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