玉城から飛行場建設に動員 中村吉子さんの体験 母の戦争(6)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 田吹 遥子
中村陽一さん

 西原町池田の中村陽一さん(67)が母の吉子さん(旧姓大城)の戦争体験記を送ってくれました。2013年に他界した吉子さんは自身の沖縄戦体験を家族に語っていました。吉子さんは軍属として日本軍と行動し、戦場をさまよいます。陽一さんは、大阪で暮らす姉の康子さん(73)とメールを交わしながら、「おかー」(お母さん)の体験記をまとめました。
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 中村吉子さんは1926年6月、玉城村(現南城市玉城)前川で生まれました。前川集落に日本軍が駐屯するようになったのは44年夏ごろのことです。住民は日本軍の陣地構築に動員されるようになります。吉子さんも飛行場建設に駆り出されます。

 《球部隊(第32軍)に徴用されて、小禄飛行場建設や読谷飛行場の飛行機掩蔽(えんぺい)壕の作業に従事したことがあると言っていました。

 小禄飛行場の作業現場で、首里出身の女性グループと組んで作業をした時のことです。

 「首里だーるーたーが、ぬーんならんさ。玉城姉小(あんぐゎー)たー、けーちばれ」(首里の人たちは役に立たない。玉城の女性たち、頑張れよ)と監督に言われ、いつもの2倍の作業をすることもあったそうです。

 この徴用に参加した者は、今でいう講習(軍属教育)を受けていた。この中で、うちのおかーは「球」で始まる認識番号を告げられていた。この時、将校が「この番号は必ず覚えておくように。戦場でこれを忘れて言えなかったら、撃ち殺されることになる」と訓示したと聞いています。》

 この認識番号で吉子さんは後に命拾いをします。