ある兵士は「戦友の肉を食った」 日本兵として中国で転戦…100歳の男性が語る戦争


この記事を書いた人 Avatar photo 田吹 遥子
マレー方面の生還者から「生きるために人肉を食べた」と聞いたことを証言する宮里政忠さん=7日、今帰仁村呉我山

 【今帰仁】日中戦争当時に召集され、中国各地を転戦した後にタイで終戦を迎えた今帰仁村呉我山の宮里政忠さん(100)が7日、本紙の取材に応じ、マレー方面から引き揚げてきた日本兵から「生き延びるために戦友の肉を食った」と伝え聞いたことを証言した。宮里さんは「恐ろしい話だが、生きるために仕方なかったのだろう」と述べた。

 宮里さんは今帰仁村呉我山で生まれ育った。天底国民学校を卒業後、親類を頼って神奈川県鶴見に移り住み、ガラス製造工場で働いていた。1942年、20歳の時に呉我山の実家に召集令状が届いた。「お国のため」と特に疑問も持たずに出征した。

 北支(中国北部、現在の華北)に駐留していた部隊で、手投げ弾の投げ方や銃器の扱い方を習った。任務は山間に身を潜めて攻撃の用意をしている中国軍を偵察することだった。「偵察が一番恐ろしかった。見つかって銃撃されたこともある」。カサカサと音が聞こえたら手りゅう弾を投げて突撃する戦闘行為を繰り返し、中支(中国中部、現在の華中)、南支(中国南部、現在の華南)を行軍した。

 「自分がいた部隊は女性や子どもを攻撃することはなかった。子どもを抱いた母親を見たことはあるが、ゆっくりと川辺を歩いて避難していった」と話す。その一方「池で泳いでいた女性がわれわれを見た途端、入水して出てこなくなった」と振り返り、日本軍を恐れた女性が自ら命を絶ったのを目撃したことを証言した。

 中国大陸を南下し、最後に進駐したタイで終戦を迎え、英国軍の捕虜になった。そこで知り合ったのがマレー方面から引き揚げてきた日本兵だった。日本兵は「向こうでは『きょうのおかずはなんだ』『にんにくだ』というやりとりで人の肉を食べていた」と明かしたという。

 宮里さんは「腐らせるより、食べて生き残ろうと思ったのだろう。当時はそれを聞いても仕方がないとしか思わなかった」と言葉少なに話した。「たくさんの死体を見てきたが何も感じなかった。それが戦争だ」とした上で「今でも戦争の夢を見る。戦争はない方がいいに決まっている」と語った。 (松堂秀樹)