<未来に伝える沖縄戦>14歳で農兵隊に召集 機銃掃射で近所の乳児即死 大田孝全さん


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
農兵隊での体験や避難生活を振り返る大田孝全さん=10月30日、国頭村奥間

 国頭村奥間で5人きょうだいの末っ子として生まれ育った大田孝全さん(91)は、14歳で農兵隊に動員されました。名護町(当時)の東江原で訓練を受けた後、奥間に派遣されて農作業に当たりました。45年の春に農兵隊が解散した後は、家族で山奥に避難。山を降りて奥間に戻ると、集落は空襲で焼け野原になっていました。大田さんの話を、国頭中学校3年の武田小夏さん(15)、同2年の新垣泉響さん(14)が聞きました。

 ■  ■  ■

 《国頭国民学校高等科2年だった大田さんは1944年12月ごろ、卒業を待たずに農兵隊に召集され、訓練のため名護農事試験場に行くことになりました》

 戦時中は、みんな何かに召集されたり動員されたりしていました。同級生の中には、海軍士官や陸軍航空隊に行った人もいました。私も海軍に志願しようと思いましたが、背が低くて志願できませんでした。

 農兵隊に動員されたのは10人ほど。奥間からも4~5人いました。木炭ガスで動く木炭バスに乗って名護まで移動しましたが、歩くのと同じくらいゆっくりした速度でした。名護に着いた後、山の上の東江原まで歩きました。東江原にはかやぶき小屋の長屋がたくさん建っていて、農兵隊の宿舎になっていました。

 《北部の隊員たちは東江原で共同生活しながら、食糧増産作業を続けました。2カ月間の訓練は、起床から就寝に至るまで軍隊式で厳しいものでした》

 東江原には国頭や屋我地、東村の少年たちが集められていて、100人以上いたと思います。長屋で一緒に寝起きして、昼間は訓練を受けました。敵から身を守るための竹やり訓練もあり、言われるがままにやりました。大隊長、小隊長、班長がいて、指導は厳しかったけれど、当時はそういうものだと思っていました。

 食事は白米に1センチ角に切った芋を混ぜた芋ご飯や、みそ汁には野山の草が具として入っていました。うちは農家で割と裕福だったから、農兵隊での食事は自宅の食事と比べて、とても質素でした。古里やお父さんお母さんから遠く離れて、帰りたくて、毎日夜になると泣いていました。他の子たちも同じでした。でも、泣いても帰れるわけではありませんでした。

※続きは11月10日付紙面をご覧ください。