訓練続きで勉強できず 宜野座嗣郎さん 島の戦争(2)<読者と刻む沖縄戦>


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 フィリピン・ミンダナオ島で生まれ育った宜野座嗣郎さん(85)=糸満市=は日本軍がフィリピンを占領し、軍政を敷いた翌年の1943年、ディゴス国民学校に入学しました。

 校長は広島県出身の三笠芳登さん、妻の三笠ツル子さんは1年生の時の担任。2年生の担任は沖縄出身の親里苗子さんでした。

 「三笠先生から教わったのはカタカナ。『アカイ アカイ アサヒ アサヒ』の教科書です。親里先生はかけ算九九を教えてくれました。小学校で学んだのはこれくらい。防空訓練、避難訓練で、勉強らしい勉強はできませんでした」

 防空訓練は防空ずきんをかぶり、各学年ごとに造られた壕に避難するというものです。「目と耳を押さえ腹ばいになって足を組む。態度が悪いと『お前たちは死ぬつもりか。死なないために教えているんだ』と先生に叱られました」と宜野座さんは語ります。

 1年生の時、担任の指示で日本軍の奉仕作業をしたことを覚えています。

 「ツル子先生に『明日は日本軍の航空隊の草刈りに行きます。カマと弁当を持ってきなさい』と言われました。翌日、飛行隊のトラックが迎えに来ました。兵舎の周囲の草刈りをするんです。兵隊が『ありがとうございます』とお礼を言って、私たちに敬礼をしていました」

 44年10月、防空訓練をしていた宜野座さんは本当の空襲に遭います。防空訓練で想定していた事態が現実になるのです。