戦争で何も残らなかった 宜野座嗣郎さん 島の戦争(5)<読者と刻む沖縄戦>


この記事を書いた人 Avatar photo 慶田城 七瀬
「平和の礎」に宜野座嗣吉さん、カナさん、ヒデ子さんの名が刻まれている

 フィリピン・ミンダナオ島から広島県に引き揚げた宜野座嗣郎さん(85)=糸満市=は福岡県に移動します。

 父の嗣吉さんは神奈川県の浦賀へ引き揚げ、この地で命を落とします。同じ真壁村(現糸満市)新垣の出身者が遺骨を沖縄に持ち帰りました。

 嗣郎さんは母カナさんやきょうだいと共に福岡県春日村(現春日市)の「欽修寮」で暮らしました。海外から引き揚げてきた沖縄県出身者が集団生活をしていたこの寮でカナさんと妹のヒデ子さんが亡くなりました。

 「母はミンダナオ島から乗った船で悪性マラリアにかかっていました。母の四十九日の日に妹も亡くなりました。母が連れて行ったのでしょうか。子ども心にも不思議に思いました」

 嗣郎さんは46年に帰郷し、新垣に住む親類に育てられました。ミンダナオ島で十分に授業を受けることができなかった嗣郎さんは2学年下の子と一緒に小学校で学びました。その後、糸満高校や琉球大学で学び、教職の道に進みます。

 両親と妹の遺骨は沖縄の墓に納められています。戦争体験を振り返り、嗣郎さんは語ります。

 「ミンダナオ島で築いた財産は全部吹き飛んだ。親2人と妹を亡くし、教育の機会を失った。戦争で何も残らなかった。これが私の生い立ちです」

 (宜野座嗣郎さんの体験は今回で終わります。23日から高山朝光さんの体験談です)