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「丸安そば」再開発の先に…後継ぎ、一度は辞めたけど「愛される店再び」<まちぐゎーひと巡り 那覇の市場界隈23>


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「のうれんプラザ」1階に入居する「丸安そば」=那覇市樋川

 那覇にはかつて、農連市場があった。戦後の闇市を起源に持ち、1953年に「農連中央市場」として整備された、農家が野菜や果物を直接販売できる市場だ。牧志公設市場と並び、県民の台所として広く親しまれてきたが、再開発によってその歴史に幕を下ろし、2017年11月に「のうれんプラザ」に生まれ変わった。この1階に、「丸安そば」の暖簾(のれん)が掲げられている。

 創業は1973年。農連市場にほど近い場所で、屋台のような建物で「丸安そば」は出発した。時代が昭和から平成に変わる頃に一度閉店し、売りに出されたところを、「丸安そば」に肉を卸していた仲里悦雄さん(78)が経営を引き継いだ。現在は悦雄さんの三男・享さん(42)が店主として切り盛りしている。

 「もともと『丸安そば』は、24時間営業の店だったんです。近くに農連市場もあれば飲み屋街もあって、24時間温かいものが食べられる、コンビニ感覚で寄ってもらえる店だったと思うんです。タクシーの運転手さんも、パッと車を止めて、すぐ食べられる。安い・早い・うまいの三拍子そろっていて、地元のお客さんに愛されるお店だったのを、父が引き継いだんです」

精肉店離れ手伝う

「丸安そば」の定番メニューの一つ「チャンポン」
厨房に立ち、フライパンを振る仲里享さん

 1979年生まれの享さんは、父が「丸安そば」を引き継いだ当時小学生だったが、店の手伝いをするのは当たり前で、皿洗いもすれば、精肉店から「丸安そば」まで肉を担いで歩くこともしばしば。小さい頃は店を継ぐことは考えておらず、「家から逃げたかった」と享さんは笑う。だが、高校卒業後は兄弟4人で家業の精肉店を手伝うことになる。

 父・悦雄さんは息子たちに精肉店を任せ、「丸安そば」を切り盛りしていた。地元客に愛されていた「丸安そば」は、次第に評判が広まり、全国からもお客さんが詰め掛けるようになった。あまりの忙しさに人手が足りなくなり、24時間営業を続けるのは難しくなった。享さんのもとにも「店が閉まってるけど大丈夫か」と心配の声が寄せられるようになり、精肉店を離れて「丸安そば」を手伝うことに決めた。それが10年ほど前のことだ。

 「最初のうちは、『そばだけ売っておけ』と親父に言われて、店番するようになったんです」と享さん。ただ、「丸安そば」のメニューはそばだけでなく、ちゃんぷるーやチャンポン、中味汁にいなむるち、さらにはハヤシライスまで、幅広いメニューを誇る食堂だった。

 「そばだけ売っていても、お客さんに『なんでチャンポンが作れないのか』と言われるんですよ。『そばしかないなら帰る』と言われることもあって、だんだんこっちも火がついて、だったら作ってやろうと、親父や夜勤のおばさんに教わりながら、そば以外も出すようになって、お客さんの反応を聞きながら料理を覚えました。だから僕は、お客さんに育てられたようなものです」

 味付け以上に苦労したのは、フライパンの振り方。ひとりで15時間以上お店に立つ日もあり、何度も調理しているうちに、少しずつコツをつかんだ。常連客はひと目で店主の息子だとわかるらしく、「お前がここを守れよ」と声をかけられた。

2号店を出店

「丸安そば」を切り盛りする店主の仲里享さん

 2016年1月、再開発のために立ち退くことになり、同年春に壺屋に移転。働きづめの日々を過ごしていた享さんだったが、父とのけんかをきっかけに店を辞めてしまう。壺屋への移転から、数カ月しかたっていなかった。「自分の人生は自分で決める」。親の力があったから成功できたんだと言われるのが嫌で、精肉店でも飲食店でもなく、建築業界で働いた。

 享さんがお店を離れている間に、一帯の再開発は完了した。「丸安そば」は、壺屋の店舗は残したまま、のうれんプラザに2号店「丸安食堂」を出店。こちらはあぐー豚の生姜(しょうが)焼きや山原豚のトンカツなどを提供する食堂としてスタートしたが、経営は軌道に乗らなかった。

 「丸安食堂」のオープンから半年ほどたった2018年の終わりに、「帰ってきてほしい」と母から享さんに連絡があった。そのときにはもう、壺屋の店舗は閉店を余儀なくされていた。享さんの脳裏に浮かんだのは、常連客に言われた「お前がここを守れよ」という言葉だった。昔気質(むかしかたぎ)の父とまたけんかになってしまわないよう、自分が店主になるのであればと条件を出し、享さんはお店を継ぐ決心をする。高級志向のメニューも元に戻し、店名も「丸安そば」とした。

 「安い・早い・うまいでお客さんに愛されてきたわけだから、高級路線は違うだろうと思ったんです。今あるものを生かしていくのが『丸安そば』。昔は大雨が降ると雨漏りして、それをお客さんも従業員も笑い飛ばしながらやってたんですよ。だから今までのスタイルに戻すことにしたんです」

今あるものを生かす

1973年に創業した「丸安そば」の最初の店舗を撮影した写真が店内に飾られている
「丸安そば」が入居している「のうれんプラザ」

 再開発で建て替わったのうれんプラザのお店は、雨漏りすることもなくなったけれど、「昔のほうが風情があってよかった」という常連客の声もある。でも、一度始めたからには、現在の場所でお店を続けていくつもりだという。「今あるものを生かしていくのが『丸安そば』」の姿勢は、ここでも一貫している。

 「地元の人も、観光の人も、新しいジョートーじゃなくて、慣れ親しんだ町を求めてると思うんです。せっかく良い雰囲気があるのに、どうしてそれを壊してまで新しいことをするのか。ただ、もう再開発をしてしまったんだから、ここをどういう場所にしていくかだと思うんです。地元の人たちが求めるものがそろっていれば、また自然と活気がある場所になるんじゃないかと思っています」

 古くて味わいのある建物も、最初は真新しくてぴかぴかだった時代がある。この場所が、かつての店舗のように味わいのある建物になる日まで、享さんはフライパンを振り続ける。

(ライター・橋本倫史)

 はしもと・ともふみ 1982年広島県東広島市生まれ。2007年に「en-taxi」(扶桑社)に寄稿し、ライターとして活動を始める。同年にリトルマガジン「HB」を創刊。19年1月に「ドライブイン探訪」(筑摩書房)、同年5月に「市場界隈」(本の雑誌社)を出版した。


 那覇市の旧牧志公設市場界隈は、昔ながらの「まちぐゎー」の面影をとどめながら、市場の建て替えで生まれ変わりつつある。何よりも魅力は店主の人柄。ライターの橋本倫史さんが、沖縄の戦後史と重ねながら、新旧の店を訪ね歩く。

(2021年11月26日琉球新報掲載)