終戦を知らされず基地建設…沖縄の住民らが動員された「労働収容所」 当時14歳が見たもの


社会
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 1945年4月、沖縄に上陸後、日本本土侵攻のための飛行場など基地を建設した米軍。その作業に、捕らえた沖縄の住民や元日本兵も強制的に従事させていた。名護市出身の東江平之さん(91)=琉球大名誉教授=も強制労働を体験した一人。当時14歳だった東江さんは、名護の田井等収容地区内の「労働収容所」、いわゆる「川上カンパン」に収容され、45年6月から11月まで、終戦を知らされることなく働かされた。収容者の中には、逃げようと試みて米軍に殺害された人もいたという。

14歳で米軍の「労働収容所」に入れられ、飛行場構築作業などに当たらされた時の体験を語る東江平之さん=10月14日、那覇市

 米軍が設置した川上カンパンは、民間人収容地区の旧羽地村(現在の名護市)田井等にあった。東江さんによると、一つのテントに30~40人が詰め込まれていた。10張り前後のテントがあり、約300~400人がいたとみられる。全員が沖縄出身者で、フィリピンから引き揚げてきた70代の男性もいたという。

 沖縄戦直前の45年3月、東江さんは県立第三中学校在学時に護郷隊に配属された。部隊は自然解散し、同年4月半ばに山中で家族と合流。6月に米軍に捕まり、東江さんだけ川上カンパンに送られた。

 収容者は毎朝8時、米軍のトラックに乗せられ、読谷や本部で飛行場建設に従事した。給料などはなく、食事は米軍の携行食などが配られた。東江さんも板敷きのテントで大人に混じって雑魚寝した。

 川上カンパンの周囲は有刺鉄線のフェンスで二重に囲われ、自由な出入りは許されなかった。四隅には米軍の監視やぐらがあり、夜はサーチライトを照らし警戒していた。収容者の中には、夜陰に紛れて脱走を図る人もいたが、米軍が機関銃で撃ち殺していたという。激しい銃声が聞こえた翌朝には、遺体が無造作に放置されていた。東江さんは「(他の収容者が逃げないよう)米軍は死体を見せしめのために放置していたのだろう」と語る。

人工知能(AI)を使い、戦時の白黒写真のカラー化に取り組む東京大学大学院の渡邉英徳教授が自身のツイッターで紹介している「川上カンパン」の様子

 同年8月、太平洋戦争は日本が降伏し終わった。しかし収容者に終戦は知らされず、強制労働は続いた。8月以降は飛行場建設ではなく、食料倉庫の整理や敗残兵が隠れそうな古民家の引き倒し作業になった。「ラジオも新聞もなく日本の敗戦も知らなかった。戦争でぶんどった人間だから、米軍は人権意識を考慮するまでもなかったのだろう」と唇をかむ。

 マラリアにかかったが、2週間で回復すると、再び収容所に送り返された。同年11月はじめごろ、東江さんは解放された。川上カンパンは収容所名簿もなく、誰が収容され、何人亡くなったのかも定かではない。収容者の体験も東江さんの証言しか残っていない。

 米軍は本島北部を中心に収容所を設置し、住民を管理下に置いた。45年9~10月ごろには、本島と周辺離島に12カ所の民間人収容所が設置されていた。名護市教育委員会市史編さん係任用職員の川満彰さんは「田井等収容所にいた住民の中には、嘉手納まで『戦果』(米軍から物資をとること)を挙げに行って米軍に殺害された人も多かったと聞く。収容所全体でどれだけの人が亡くなったのか、被害の全貌解明が必要だ」と指摘する。

(中村万里子、写真も)