国際通りの真ん中に、むつみ橋交差点がある。現在では暗渠(あんきょ)になったが、ここにはガーブ川が流れており、橋がかかっていた。この交差点の近くに、「かどや」という沖縄そば屋がある。
創業者の石川康昌さんは、1920年生まれ。終戦後は米屋や豆屋を営んでいたものの長続きせず、しばらく定職に就かずに過ごしていた。見かねた義理の母が、郷里・宮古島の「古謝食堂」でレシピを教わり、そば屋を開いたらどうかと提案。1952年のオープン当初は国際通りを挟んだ向かい側、市場本通りの角に店舗を構えており、そこから店名を「かどや」とした。
「当時は今の5分の1ぐらいの広さで、ぎゅうぎゅう詰めでやっと10人ぐらい入れる店だったんです」。2代目としてお店を切り盛りする石川幸紀さん(66)は当時を振り返る。「かどや」は24時間営業で、康昌さんは家には寝に帰ってくるばかりで、幸紀さんは父が起きている姿を見る機会が少なかった。
「小さい頃は、『どこのおじさんがおうちにいるんだろう?』という感じがして、どこか他人行儀に接していた気がします」と幸紀さんは笑う。「当時は物もない時代だから、そばもごちそうだったんです。今の麺はかんすいが入っているから日持ちするけど、昔は那覇で作ったおそばを名護まで持っていけないぐらい繊細なものだったんです。だから、遠くから那覇まで買い物にきた人たちが『せっかくだから』とおそばを食べて帰ることも多かったみたいですね」
時計をそば代に
創業当初、メニューは「そば」だけ。復帰前は1杯10セントで出していた。今よりひとまわり小さいどんぶりを使用していたこともあり、ひとりで2、3杯食べていくお客さんも多かったそうだ。
「琉大が首里にあった頃だと、お金のない学生さんが『この時計でそばを食べさせてくれ』と言ってくることもあったみたいで。『この時計なら20杯』と親父が決めて、棚に時計が何個か並んでいたんですけど、何年かたって質屋さんみたいに引き取りにくる人もいて。今思うと良い時代ですよね」
まちぐゎーでは、小さい頃から家業を手伝っていたという話を聞くことが多いけれど、熱湯でやけどしては大変だからと、両親は幸紀さんに仕事を手伝わせなかったという。4人兄弟の3番目で、両親から「店を継げ」と言われたことは一度もなかったけれど、いつかは自分がと心に決めていた。
「小さい頃はボーイスカウトに入っていて、キャンプで焼きそばを作ったことがあったんです。それが皆に好評で、そのときうれしかった気持ちがずっと残ってたんですよね。親からは一度も『やれ』と言われたことはなかったし、自分から『やろうね』と言ったこともないんだけど、高校を卒業したあとに1年間調理師学校に通って、自然と手伝い始めたんです」
母と店を切り盛り
復帰の年に、「かどや」は現在の場所に移転。1977年に父・康昌さんが亡くなってからは、母・秀子さんと一緒にお店を切り盛りするようになった。調理師学校に通いながら、中華料理店で修業していたこともあり、「おそばぐらいなら自分にも作れる」と幸紀さんは思っていたけれど、レシピ通り作っても常連客から「先代と味が違う」と言われてしまうこともあった。父と比べられなくなったのは、お店を継いで10年近くたった頃だという。「レシピ通りやってても、そこにプラスされる年季があるんだね」と幸紀さんは語る。
当初は「そば」1品だけだったが、40年ぐらい前からメニューを少しずつ増やして、現在では三枚肉そばやソーキそば、ロースそばも出している。もともとの「そば」は、かつて流行した『一杯のかけそば』という物語にヒントを得て、「かけそば」として提供している。食材費の高騰により、十数年前に値上げを余儀なくされたとき、100円の「おかわり麺」もメニューに加えた。
「たとえばお母さんと小さいお子さんが、ふたりで1杯のおそばを食べると、ちょっと物足りないなと思ったときに、100円でおかわり麺を追加して食べてもらえるようにしようと思ったんです。そうすれば2杯頼むより経済的でしょ。うちはもともと10セントだったもんだから、なるべく安く提供したいという気持ちがあるんです。なかにはひとりで3杯、4杯とおかわり麺を頼むお客さんもいますよ」
むつみ橋交差点にはかつて、クリスマスを過ぎるとしめ縄飾りを売る露店が並び、大勢の買い物客でにぎわっていた。大晦日(おおみそか)の夜は「かどや」も書き入れ時で、両親は深夜まで働き通しだった。
「中学生ぐらいになると、大晦日の夜には『遊びに行こう』って友達が誘いにくるんですよ。でも、仕事をしてる両親に申し訳ないような気がして、僕は遊びに行けなかった。でも、最近はしめ縄飾りを売る人たちもいなくなって、大晦日に店を開けていても最近はお客さんが少なくなってきてるから、一昨年からは大晦日でも5時過ぎには閉めちゃうんです」
街の変化
時代とともに街並みも変わり、最近はゴミが増えたと幸紀さんは語る。昔は2軒隣まで掃除をするようにと教え込まれたが、最近は自分の店の前にあるゴミをまたいで歩く店員さんもいる。「比べると通りが汚くなった気がする」と幸紀さんは嘆くが、それでも「店にある小さな窓から、通りの風景を眺めて人間観察をするのは飽きない」と顔をほころばせる。
お店に立ち始めて、今年で46年。「最近になって、やっとコツがわかってきた気がする」と幸紀さんは語る。かつお節は使わず、豚骨だけで出汁(だし)を取るレシピ自体は先代の頃から変わっていないけれど、調理の過程で日々新しいことに取り組んでいる。上品な出汁の香りに、飽くなき探究心が詰まっている。
(ライター・橋本倫史)
はしもと・ともふみ 1982年広島県東広島市生まれ。2007年に「en-taxi」(扶桑社)に寄稿し、ライターとして活動を始める。同年にリトルマガジン「HB」を創刊。19年1月に「ドライブイン探訪」(筑摩書房)、同年5月に「市場界隈」(本の雑誌社)を出版した。
那覇市の旧牧志公設市場界隈は、昔ながらの「まちぐゎー」の面影をとどめながら、市場の建て替えで生まれ変わりつつある。何よりも魅力は店主の人柄。ライターの橋本倫史さんが、沖縄の戦後史と重ねながら、新旧の店を訪ね歩く。
(2021年12月24日琉球新報掲載)