米統治下の沖縄からプロ野球へ 数々の「県勢初」達成 元広島カープ投手 安仁屋宗八さん(1)<復帰半世紀 私と沖縄>


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広島に入団したプロ時代の出来事などを語る安仁屋宗八さん=那覇市泉崎の琉球新報社(大城直也撮影)

 低めに集めた速球と、鋭いシュートが小気味よく決まった。1964年6月14日、広島市民球場。九回、巨人の森昌彦を二ゴロに打ち取ると、19歳の右腕が完投で挙げたプロ初勝利に、スタンドが沸いた。マウンドにいたのは、広島の安仁屋宗八(77)。のちに「巨人キラー」と呼ばれた。沖縄出身のプロ野球選手が初めて勝ち星を挙げた瞬間だった。

 米国統治下にあった沖縄ではこの日、多くの家庭がラジオの実況中継にかじりつき、安仁屋の投球に一喜一憂した。那覇市松尾の実家でも、家族が固唾(かたず)をのんで聞き入った。その期待に応えるかのように王貞治、長嶋茂雄の2人にも堂々と渡り合い、計8打数1安打に抑えた。初勝利を「プロでやっていけると、多少の自信はついた」と振り返る。

 11人きょうだいの8番目。兄の影響で壺屋小4年の時から野球を始めた。米国統治下の沖縄からプロ野球の道へ。「言葉と食事が不安でプロに行く気は全くなかった」と言うが、広島の熱心なスカウトに心を動かされた。

 プロ生活18年の通算成績は119勝124敗22セーブ。勝利数のうち34勝は巨人からだ。沖縄では当時、プロ野球中継のほとんどが巨人戦だった。「巨人戦で投げとったら、テレビに映る。親孝行するという気持ちだった」。故郷・沖縄にいる両親に活躍する姿を見せようと、自然と力が入った。

 V9時代の常勝軍団を相手に躍動する姿に、沖縄中がくぎ付けになった。「安仁屋が投げると沖縄の交通量が減る」と言われるほどで、テレビがあまり普及していなかった当時、電器店には人だかりができた。県民の期待を背負った「沖縄の星」は、数々の「県出身者初」の記録を打ち立て、輝きを放った。

 (文中敬称略)
 (前森智香子)


 沖縄が日本に復帰して今年で半世紀。世替わりを沖縄とともに生きた著名人に迫る企画の16回目は安仁屋宗八さん。プロ野球で活躍した安仁屋さんの思いに迫る。

 

 


▼(その2)「沖縄の温かさずっと続いて」 県民を沸かせた「巨人キラー」故郷への思い胸に続く