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「沖縄の温かさずっと続いて」 県民を沸かせた「巨人キラー」故郷への思い胸に 元広島カープ投手 安仁屋宗八さん(2)<復帰半世紀 私と沖縄>


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野球人生を振り返る安仁屋宗八さん。「自分のためにやっとったら、チームのため、沖縄のためになるだろうと思っていた」=那覇市泉崎の琉球新報社(大城直也撮影)

▼(1)米統治下の沖縄からプロ野球へ 数々の「県勢初」達成 から続く

 

 旧那覇市を中心に米軍の大規模な空爆があった10・10空襲の約2カ月前の1944年8月、安仁屋宗八(77)は那覇市垣花で生まれた。11人きょうだいの8番目で六男。生後間もなく、漁師の父宗英、母ミツら家族で大分県に疎開した。戦時中の記憶はない。「疎開して苦労した」とは聞いたが、多くは知らない。「あまり思い出したくないだろう」と推し量る。

 「お前は一度死んだようなものだ」。高校生の頃、家族が集う場で初めて打ち明けられた。大分で疎開中、空襲に遭った際、防空壕が崩れ、幼い安仁屋は生き埋めになったという。母が必死に土を掘り起こし、助け出した。その日は姉のお下がりの赤い着物を着せられていた。「土から赤い着物が見えて分かったらしい。あと1、2分遅れていたら、命が危なかったかもしれない」

 終戦から数年後、那覇市に戻った。長男の宗一は米軍基地でコックとして勤務。仕事で余った肉などを自宅に持ってきてくれた。「ありがたいことに、食べ物には困った覚えがない」と感謝を口にする。

 

猛練習

甲子園出場後、那覇市の国際通りでパレードする沖縄高校ナインら。オープンカーの右に乗っているのが安仁屋宗八さん=1962年8月

 野球を始めたのは壺屋小4年の時。兄の後をついていき、自然とプレーするように。まきにするような木材をバット代わりに、布を縫い合わせたグラブと、まりをボールにした。那覇中を経て、創立から日が浅い沖縄高(現在の沖縄尚学高)に60年に入学した。

 「野球は中学で終わり」と考えていたが、高校でも続けた。「設立して間もない学校で、プレッシャーがなかったのが良かった」という。ただ練習は厳しかった。毎日200球近く投げ込み、約20キロを走った。「ずっと走って、投げ込んで。だからスタミナには自信があった」と胸を張る。

 62年、沖縄高は南九州大会を勝ち抜き、県勢として初めて実力で甲子園出場を勝ち取る。開会式で本土の選手たちと並び、驚いた。「大人と子どもぐらい体格が違う。最初から負けているような感じがあった」

 初戦の対戦相手は広島の強豪・広陵高。「その頃から広島と縁があったのかな」と振り返る。六回に4点差を追い付くも、4―6で惜敗した。予想外とも言える善戦に、スタンドからは「よくやった」との声が飛んだ。甲子園の土は、スパイクや靴下にこっそり忍ばせた。その4年前、沖縄代表として初出場した首里高チームの持ち帰った土が検疫に引っ掛かり、港で捨てられる騒ぎがあったからだ。無事持ち帰った土は、学校のマウンドにまいた。

 

県民が熱狂

 甲子園から戻ると、県民に熱狂的に迎えられた。泊港に大勢の人が詰め掛け、ナインの健闘をたたえた。国際通りでパレードも行われ、安仁屋は野球部主将の粟国信光とオープンカーに乗った。「道路の両脇、ものすごい人だったよ」と懐かしむ。

 パレードだけではない。安仁屋と粟国は、翌月にはキャラウェイ高等弁務官とも面会した。「政治のことは全く知らない。僕らは難しい話はできないし、おめでとう、と言われただけ」と淡々と受け止める。面会の記念にもらった写真には「祝意を表し、将来の御成功を祈って」などとのメッセージとサインが添えられている。

 復帰前、沖縄は「職域野球(社会人野球)」が盛んだった。高校卒業後、五男宗太郎が勤務しプレーしていた琉球煙草に入社。都市対抗九州予選に出場し、チームは敗退したものの、本大会出場を決めた大分鉄道管理局から補強選手に指名された。沖縄初の都市対抗出場選手となり、後楽園の土を踏んだ。

 

 

広島入団時の手書きの契約書。契約金が手取りで2万5千ドルであることなどが記されている=昨年12月、那覇市奥武山町の野球資料館展示、安仁屋さん寄託

プロへ

 都市対抗では日本生命を相手に中継ぎで登板。3回無失点の好投がプロのスカウトの目に留まる。試合を終え、チームが滞在していた東京・日本橋の旅館に戻ると、大分鉄道の監督に部屋に来るよう呼ばれた。待っていたのは東映のスカウト。「スカウトって何ですか」と尋ねると、監督は「人買いだ」と冗談半分に語った。

 プロ野球中継も少なかった時代。知っているチームは巨人と西鉄ぐらいだった。誘いが来ても「本土に行く気は全くなかった」と言い切る。その理由は「言葉と食事」だという。「ずっと方言ばっかり。標準語がなかなか使えなかったですから、人と話すのが苦手だった」と明かす。都市対抗に出場した時も、チームメートに温かく接してもらったが、「聞かれたら答えるぐらいで、話し掛けることはできなかった」

 気持ちが変わったのは、広島の選手兼コーチだった平山智の存在だ。当時、本土から沖縄へ行くにはパスポートが必要だった。日系2世でパスポートを持っていた平山はいち早く沖縄入りし「来てくれたら全部面倒をみる」と熱心に語った。「僕と同じ、たどたどしい日本語。うちのおやじは平山さんのハートにほれて『この人なら大丈夫だ』となった」。心が動き、入団を決定。広島と契約を結んだ。県出身者のプロ入りは東急の金城政夫に次いで2人目だった。「平山さんが来ていなかったら、プロ入りを断っていたかも」と語る。

 

 辞めて帰りたい

 

 出発前、安仁屋は琉球政府の大田政作主席と面会。当時の琉球新報には、激励を受けて「沖縄を代表としている気持ちを忘れず、できるだけのことをして頑張ります」と語る様子が報じられている。多くの県民の期待を背に、63年9月、那覇空港から父と一緒に福岡行きの飛行機に乗り、広島へ旅立った。

 福岡で同期入団の苑田聡彦と合流し広島へ。白石勝巳監督にあいさつへ行き、初対面で掛けられた言葉は「お前、この体で本当に野球やってたんか」だった。当時は177センチで60キロに満たなかった。がっしりした体つきの苑田が「期待しとるからな」と言われたのもあり、ショックは大きかった。辞めて帰りたいと父に弱音を吐くと「契約金をもらってる。1年だけ頑張れ。辞めたら返さないといけない」と励まされた。

 球団の配慮で、最初の1カ月間は父が寮に泊まることが認められた。言葉や食事で不安が大きい中、父が一緒なのは心強かった。寮で出される朝昼晩の食事も父と共にした。食事は口に合わなかった。サラダや刺し身といった生ものが苦手。沖縄の濃いめの味付けが好きで、本土の料理は「あっさりしすぎて味がない」と感じた。

 「猛練習」が代名詞の広島。プロ入り後は、練習量に驚いた。当時、沖縄への電話は国際電話で、家族と連絡も取りにくかった。ただ、そこまでホームシックにはならなかった。寮で共に生活した同学年の選手たちと親しくなれたのが大きかった。「おやじが1カ月いてくれたのもあるが、周りの人たちにすごくよくしてもらった」

 

広島に出発する前、那覇空港に見送りに来た家族と記念撮影した。前列右から母ミツさん、安仁屋宗八さん、父宗英さん
広島カープ時代の安仁屋宗八さん

巨人キラー

 実質1年目の64年6月14日、巨人戦で1失点の完投でプロ初勝利を挙げた。ある日、投手コーチや監督を務めた長谷川良平に「名前を残すか、実績を残すか」と聞かれた。意味を問うと「巨人戦メーンに投げれば、名前が残る」。お任せします、と答えると、巨人戦中心の登板になった。

 68年には自己最多の23勝を挙げた。74年オフに阪神へ移籍し、75年に最優秀防御率とカムバック賞を受賞した。広島に戻り81年に引退、通算119勝124敗22セーブの成績を残した。巨人戦の通算勝利は34勝に上る。「1年だけ頑張る、というのが今になっている。ここまでできるとは思わなかった」

 オフには欠かさず帰省し、家族や友人たちと会うのが楽しみだった。日本復帰後は「パスポートが要らなくなり、面倒な手続きをせんでいい。すごく便利になった」と捉える。

 19歳で沖縄を離れ、60年近く。広島ではラジオ番組にレギュラー出演し、解説者も務める。「野球を辞めたら沖縄に帰りたい」と考えていたが、現役引退後も広島で仕事があり、離れられなかった。「ずっと野球に携わる仕事をさせてもらっているのは、本当にありがたい」と感謝する。

 沖縄は今も「大好きな古里」だ。故郷に関することは「野球に限らず、どんなニュースでも興味持って見る。それぐらい気になる」という。今年で復帰50年。本土にいると、基地問題も気になる。自身は兄が米軍基地で勤めていたこともあり、「お世話になった面もある。一概に悪く言うことはしたくない」と明かす。さまざまな問題を抱えてはいるが「沖縄の人の優しさ、雰囲気が大好き。この温かさはいつまでも続いてほしい」と願った。

 (文中敬称略)
 (前森智香子)