韓国大統領選挙が3月9日に投開票される。日韓関係の行方を巡り日本でも関心が高まっている。一方、韓国では今回の大統領選挙で対日外交ビジョンが正面から語られることはほとんどない。両国間には歴史認識の課題などが横たわっているにも関わらず、だ。そんな中で候補者の口から出てきたのは「沖縄」というキーワードだった。(ジャーナリスト・李真熙)
◆韓国の大統領選挙とは
そもそも韓国大統領とはどのような存在だろうか。制度面と合わせて紹介したい。
韓国大統領は国民による直接選挙で選ばれる。2022年は第20代目の大統領を選ぶ選挙だ。40歳以上の韓国国民が大統領選に立候補できる。有権者の総数は約4420万人で、韓国人口のおよそ8割を占める。
今後5年間にわたり国の行方を左右するリーダーを選ぶことから、投票率は高い。2022年2月末に実施された世論調査では、有権者のうち86% が「必ず投票に行く」と答えた。前回(2017年)の大統領選挙投票率は77.2%だった。10〜20代の投票率も高い。17年は19歳が77.7%、20代前半が74.9%、20代後半は74.1%を記録した 。今回は投票年齢が満18歳以上に引き下げられて初めての大統領選 で、現役高校生の一部も投票する。
投票日は公休日となる。現職大統領の任期満了70日前から数えて最初の水曜日が投票日となる。水曜日が指定される理由は、投票率の低下を防ぐため。投票日が週末と組み合わさって連休化しないように工夫されている。
当選者は、行政権を持つ韓国政府の長となり、同時に、立法権と司法権にも影響を及ぼしうる強大な権限を手にする。国会が可決した法案に対して再議を要求できる事実上の拒否権や、司法のトップである大法院院長の任命権などを与えられることから韓国大統領は「帝王的」とも評される。
大統領官邸は「青瓦台(チョンワデ、せいがだい)」と呼ばれる。青瓦台の由来は官邸の青緑色の瓦屋根だ。アメリカのホワイトハウスにちなんでブルーハウスとも言われる。ソウルの市街地や他の官庁、汝矣島(ヨイド)にある国会議事堂からは少し離れた北岳山の麓に位置する。このことから市民の生活と隔絶された環境で巨大権力が行使されることへの批判があり、候補者ら自身も問題視している。
韓国大統領の任期は5年間。アメリカやフランスの大統領とは異なり再選は認められていない。任期の終盤にリーダーシップが弱まる傾向があり、過去には任期末に成果を印象付けようと、対外関係で大きく動く大統領もいた。弾劾で2017年に罷免された朴槿恵(パク・クネ)元大統領は、職務停止直前に、日本との間に秘密軍事情報保護協定(GSOMIA)を結んだ。
一方、在任中の文在寅(ムン・ジェイン)大統領は、歴代大統領のなかで、就任初期と比べた支持率の下落幅が最も少ない大統領となる見通しだ。支持率は40%台で調査によっては50%近い数値をキープしている。
◆主な候補者らの顔ぶれ
今回の第20代韓国大統領選挙で主要候補とされてきたのは、進歩派与党「共に民主党」の李在明(イ・ジェミョン、57)前京畿道知事、保守系最大野党「国民の力」の尹錫悦(ユン・ソンヨル 、61)前検察総長 、革新系野党「正義党」の沈相奵(シム・サンジョン、63)元代表 、中道派野党「国民の党」の安哲秀(アン・チョルス、60)代表ら4人だ。このうち安哲秀氏は、投票日まで1週間を切った3月3日、尹錫悦氏への候補一本化を発表し選挙戦から撤退した。尹氏が当選すれば共同政権も視野にあるとしている。
選挙戦の主な争点は、住宅価格の高騰や若者の就職難などの課題への対応、経済的不平等の解消、朝鮮半島の平和と安全保障・外交など。李在明、尹錫悦両氏は新型コロナウイルスの感染拡大に伴う支援策、沈相奵氏は気候危機克服のための脱炭素社会への転換を、それぞれ公約の1番目に掲げている。
最新(3月2日時点)の各社世論調査による各候補の支持率は次の通り だ。李在明34.1〜43.7%、尹錫悦39.9〜45.1%、沈相奵1.8〜2.5%、安哲秀7.1〜10.3%。事実上、進歩派与党の李在明候補と保守派最大野党の尹錫悦候補による一騎打ちの展開となっている。
余談となるが、今回の大統領選挙にはいわゆる「群小政党」の候補者らも名を連ね合計14人 が立候補している。国連本部をニューヨークから板門店に移転させる公約を掲げる候補者もいる。(日本語で今風に言えば「泡沫候補」となるかもしれない。)
◆公開討論会で言及された「沖縄」
韓国の公職選挙法は、選挙運動期間中に少なくとも3回、選挙放送討論委員会が候補者を集めて公開討論会を開くことを義務付けている。有権者が投票の参考にできるようにするためだ。放送各社や記者会の主催でも別途討論会が行われる。これらの討論会はテレビの他にラジオ、インターネットで中継される。日本からも韓国大統領候補者らの論戦をリアルタイムで見られる仕組みとなっている。
主要候補者らによる最初のテレビ討論会は2月3日、地上波の放送3社(KBS・MBC・SBS)の共催によりヨイドのKBS本館スタジオで行われた。
くしくもその2日前、2月1日に、日本政府は世界文化遺産登録を目指して「佐渡島の金山」をユネスコ世界遺産センターに推薦することを閣議決定した。韓国側はこの決定に対し、第2次世界大戦中に朝鮮人らが「強制労働の被害にあった現場」だとして強い遺憾の意を表していた。大統領候補者らが日韓関係についてどのような発言をするかが注目される状況だった。
討論会は午後8時に始まった。KBSのスタジオでは、みぞおちあたりの高さの演台が2メートルほどの間隔をあけて4つ並んでいた。候補者らがそれぞれの演台の後ろに立つと、2時間にわたる立ちっぱなしで討論会がスタートした。
演台はアクリル製のような無色透明で、候補らの一挙手一投足が丸見えとなっていた。候補者らは明らかに緊張しており、日本で見ている筆者にまでそれが伝わってくる。
討論会には国内で最重要課題に位置付けられる「不動産」に続き「外交・安全保障」というテーマが設けられていた。日韓関係にドンピシャな主題だった。しかし、それにもかかわらず日韓関係が議論されることはなかった。代わりに言及されたのが「沖縄」だった。
中道派野党の安哲秀氏が、韓国における安全保障の最重要課題は北朝鮮の核への対応だとした上で、新たな韓米協定についての持論を持ち出した。「グアムや沖縄にあるものを利用できる核共有協定」を結び、朝鮮半島に核を持ち込まなくても理想的な安保体制が築けると主張したのだ 。
「持たず、つくらず、持ち込ませず」の非核3原則がある日本の中の沖縄に、核兵器があるかのような前提で進行する議論に耳を疑った。沖縄の軍事基地負担を前提とするような発言に反射的に舌打ちをしてしまった。筆者は2016年から5年間沖縄県で生活し、最初の1年間は琉球新報の記者として、その後はフリーの記者として沖縄戦の傷跡や過重な基地負担により葛藤を強いられている社会を目の当たりにしてきた。大統領候補の発言には違和感を感じざるを得なかった。
◆空疎化する日韓関係と、沖縄
安哲秀氏は2月25日に行われた選挙放送討論委員会主催の2回目の討論会でも「実はグアムや沖縄にわれわれが使える戦術核がある」として、北朝鮮からの核の脅威など緊急事態下では、米軍機に搭載した核兵器を使える「核共有協定」が必要だと訴えた。
討論会の個別質問のコーナーで安氏が保守派最大野党の尹錫悦候補に質問を切り出した中で言及したものだ。安氏は後に候補者一本化で尹氏に合流することになる。
論戦を仕掛けられた尹氏は、朝鮮半島の核問題は「NPT(核拡散防止条約)の枠組みで」扱うという立場を示した。NPTは、韓米の緊密な協議に基づき核使用にいたるプロセスに韓国が深く関与できるシステムだとし、米本土のICBM(大陸間弾道ミサイル)や「アメリカが、われわれアジア地域に配置している戦術核を北朝鮮の核の脅威に対応させる」と述べた。
これに対して安氏は追加質問で、万が一の事態はあってはならないと前置きした上で、核拡散抑制よりも確実な韓米の核共有協定が必要だと強調した。
応酬は続く。尹氏側は「核共有」には現実性がないとして「例えばグアムにアメリカの戦術核があるとすれば、核共有はわれわれの戦闘機がそれを積んで対応するが、その時間より(米西海岸のカリフォルニア州にある)バンデンブルグ(基地)にある戦略核を、爆発力を縮小させて戦術核規模にして対応する方が時間的にも少なくて済む」と応じた。
「それは何もわかっていないお話」だと安氏は尹氏をいなして「わたしが申し上げた核共有協定というのは、NATO(北大西洋条約機構)式の核共有協定とは違い、米軍機に搭載されているその核をアメリカと韓国が協議して、それを使うのかを議論しようというそれです」と持論を繰り返していた。
在沖縄米軍を活用した「核共有」案を持ち出す安氏に自身の安保観で応じた尹氏だったが、結局は話がかみ合わないまま議論が終わった印象だ。
野党・沈相奵氏は安氏の議論に対しては、核兵器のボタンを米軍が握っている以上は「核使用の決定権自体を共有しているかのように考えるのは事実ではない」と指摘し「実現不可能なことをおっしゃっている」と取り合わなかった。与党・李在明氏には質問はなかったものの、自身の安全保障を論じたが在沖縄米軍への言及などはなかった。
日韓関係が空っぽになっているような印象もテレビ討論会からは受けた。最悪の日韓関係とも言われる中で候補者らの討論に注目した結果、話題に出てきたのは米軍基地の島としての沖縄だった。だが沖縄の実情がどこまで韓国社会に伝わっているのかは疑問だ。地元の住民への理解が欠けたまま「ヨイド」の机上の議論として「沖縄」が語られていることには懸念も募る。
◆連動するアジア地域
コロナ禍以前、韓国からは2018年度に過去最多の約55万人が沖縄を訪れた。これは台湾からの約92万人に次ぐ2番目の多さだ。
韓国の文在寅大統領は2018年4月27日、金正恩朝鮮労働党委員長と板門店で南北会談を行い対話した。その年の6月23日、沖縄では当時の翁長雄志知事が、東アジアの安全保障環境が大きく変化しているとして、次のような平和演説を残している。
「私たち沖縄県民は、アジア地域の発展と平和の実現に向け、沖縄が誇るソフトパワーなどの強みを発揮していくとともに、沖縄戦の悲惨な実相や教訓を正しく次世代に伝えていくことで、一層、国際社会に貢献する役割を果たしていかなければなりません」
アジアの隣国の政治家たちの言葉にはそれぞれの地域が影響を与え合う様子が垣間見えてくる。このつながりをどう発展させていくかが問われている。
◆在日コリアンを巡る新しい動き
今回の大統領選挙では韓国籍を持って外国に居住・永住する約22万の人びとが投票すると見込まれている。日本では各都市の韓国総領事館や韓国民団の施設を中心に19の投票所が設置され、2月23〜28日に約1万9000人が投票した。在日3世の筆者もここで1票を投じた。
日本で生まれ育った在日コリアンらが、一定の条件のもとで韓国の国政選挙に投票できるようになったのは2012年のことだ。この新しい変化については、新大統領選出後の韓国の様子と合わせて、また次の機会に紹介したい。
李真煕(り・まさひろ) ジャーナリスト、日本外国特派員協会会員。東京大学大学院で社会情報学修士号取得。琉球新報記者などを経てフリーランスの記者となる。三重県出身。
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