昨年来、「この30年間、日本の賃金がほとんど上がっていない」と盛んに取り上げられます。沖縄県も、本土より景気が良かった時でさえ、「稼ぐ力」の弱さゆえ、賃上げ率が本土と同程度だったため、水準格差は残ったままです。
なぜ賃金は上がらないのでしょうか。さまざまな要因が指摘されます。「賃上げよりも雇用維持を優先する労使の特性、労組の弱体化」「非正規雇用者の増加」など。さまざまな要因が絡み合っていることは事実ですが、個人的には、本質的な原因の一つは、「物価(製商品・サービス価格)や生産性が(健全な形で)継続的に上がらないこと」にあると考えます。なぜなら、「賃金の伸び」は、おおむね「物価の伸び」と「生産性の伸び」の合計になるからです。
まず物価です。「物価が上がらないのは良いことじゃないか」と反応する方も多いと思います。ただ、「(一定程度)物価が上がり、賃金が上がり、物価が上がり…」という循環が働くことこそ、経済がパイを大きくしながら成長していくメカニズムなのです。
日本では、(日銀OBの渡辺努・東大教授も述べている通り)長年のデフレなどもあり、物価や賃金が継続的に上がる健全な循環が断ち切られ、物価上昇を許容しにくい空気が形成されました。企業が値上げを発表すると、「家計に打撃」と報道され、「給料が上がらないのに物価が上がると困ります」という街頭インタビューが流れます。
かつて25年ぶりにアイスを60円から70円に値上げした企業は、会長以下社員一同がおわびするCMを打ちました。最近では、県内スーパーが一部商品の値下げを開始し、激安店を特集するTV番組が軒並み好視聴率です。「物価が上げられない」→「企業収益が改善しない」→「賃金が上がらない」→「物価が上げられない」という負のスパイラルに陥っているのです。
エネルギー価格の高騰などにより、世界中で物価が上昇しています。日本でも、(企業間で取引される財を対象とする)川上の「企業物価」は、前年比9%を超す高い伸びを記録しています。しかし、川下の「消費者物価」は、ガソリン・電気料金が高騰し、食品類などが上昇する一方、携帯電話通信料の低下もあり、(ウクライナ情勢などの不透明要因はありますが)本稿執筆時点では1%に届かない低い伸び(携帯電話要因を除いても2%程度の伸び)です。約8%の米国や6%近いユーロ圏とは対照的です。企業がコストアップ分を販売価格に適正に転嫁できなければ、収益が圧迫され、賃上げが一段と難しくなります。
個々人にとって生活物価が上がらないのは喜ばしいことです。でもそれでは、いつまでも賃金が上がらないのです。こうした現象を「合成の誤謬(ごびゅう)」と言います。「私たちは自分で自分の首を絞めている」という「不都合な真実」を冷静に認識し、その上で、値上げを許さない現状を続けるのか、それとも、物価と賃金が健全に循環して上昇し、経済が前向きに拡大していく国に戻すのか、を社会全体で考えることが必要です。
物価上昇を許容しない社会構造が容易に変わらないのであれば、もう一つの賃上げルートは生産性を上げることです。優遇税制などの効果により、今回の官製賃上げが成功したとしても、それだけでは長続きしません。「生産性向上を通じて企業の収益力を高め、持続的な賃上げにつなげる」取り組みは、県経済だけでなく国全体にとっても1丁目1番地の課題なのです。
(桑原康二、元日銀那覇支店長)
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沖縄が日本に復帰して今年で50年。県民所得が全国最下位水準で貧困問題を抱えるなど県経済の課題は多い。沖縄の経済を鋭い視点で見つめてきた元日銀那覇支店長の桑原康二氏に現状分析を基に提言をしてもらう。
くわはら・こうじ 1965年広島県生まれ。シェークスピアと西洋美術史の研究者を志し、東京芸大を志望するが断念し、東京外大・英米科に入学。紆余(うよ)曲折を経て再度方向転換し、89年に日本銀行入行。那覇支店長などを務め、現在は会社役員。