衆参両院で通算24年にわたり国会議員を務めた前衆院議員の照屋寛徳氏が15日午後1時42分、胃がんのため沖縄県西原町の病院で死去した。76歳。うるま市出身。不戦や護憲を訴え続け、参院議員1期、衆院議員6期を務めたほか、所属する社民党で国対委員長や副党首を歴任した。通夜や告別式は未定。
照屋氏は1945年7月24日にサイパンの米軍捕虜収容所で出生。前原高、琉球大法文学部を卒業し、72年に弁護士登録。嘉手納爆音訴訟、家永教科書裁判などの弁護団に加わり、刑事事件で7件の無罪を勝ち取るなど人権派弁護士として活躍した。
1988年に県議初当選。2期目途中の95年に参院選に出馬して当選を果たし、国政に転身した。2期目を目指した2001年に落選したものの、03年の衆院選で当選し、沖縄2区で社民党の議席を6期連続で守り続けた。
米軍の事件・事故が相次ぐ沖縄の現状を国政の場で問い、日米地位協定の改定を主張したほか、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設計画にも一貫して反対した。「沖縄戦の悲劇を繰り返してはならない」との思いで護憲を訴え続けた。
「ウチナーの未来は、ウチナーンチュが決める」の信念を前面に、保革を問わず幅広く支持を広げた。昨年10月の衆院選に立候補せず政界を引退した。
社民党県連代表で県議の照屋大河氏は長男。 (大嶺雅俊)
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