「ウチナーの未来はウチナーンチュが決める」を信念にした前衆院議員の照屋寛徳さんが15日、76歳で亡くなった。戦後、貧しい家庭に育ち、勉学に励んで弁護士に。「無憲法」だった米統治下の沖縄で不条理を糾弾し、国会議員に転身した後は米軍基地問題や憲法の問題を追及した。友人らは「ウチナーのちむぐくる」を大切にした「偉大な庶民」を失った悲しみに暮れた。
沖縄平和運動センター前議長の山城博治さん(69)は同郷の後輩で、時に酒を酌み交わしながら寛徳さんの半生を聞いてきた。「苦しい経験すら笑いに変える強さがあった。国会議員になっても庶民の魂を失わない、『偉大な庶民』だった」と振り返った。
山城さんが大病を患った時も、反基地運動で長期間拘束された時も、すぐに駆けつけ「博治、笑え」と言葉を掛けたという。
山城さんは12日、病床の寛徳さんと面会した際、胃がんの手術をしたが手を付けらない状況だったと打ち明けられた。コロナ下で面会時間はわずか15分。山城さんは「笑いながら病気を克服してください」と手紙を残してきた。
寛徳さんが亡くなったことを取材で知ると、山城さんは絶句。「私が座り込みの現場で歌う『沖縄の道は沖縄が拓く』という歌詞は、彼の言葉を私なりに変えたものだ。遺志を引き継いでいくしかない」と、振り絞るように語った。
沖縄弁護士会元会長の新垣勉さん(76)は寛徳さんと同学年。弁護士としても政治家としても一目置いてきた。「平和と憲法を守るための情熱はすごかった。『ウチナーンチュのちむぐくる』を大切にしていた」と振り返る。
野党の臨時国会召集に応じなかった安倍内閣(当時)の違憲性を問う憲法53条訴訟で、寛徳さんは原告、新垣さんは弁護団の一員だ。一緒に作成した陳述書で、寛徳さんは「真っ正面から憲法53条に違反するか否かを判断していただきたい。裁判所こそ、最後の憲法の守り手であってほしいと強く願う」と強調した。新垣さんは陳述書を読み返しながら「死ぬまで憲法を大切にしていた」と悼んだ。
「第3次普天間米軍基地から爆音をなくす訴訟団」の新垣清涼団長(71)は「びっくりした。まだまだ若い。もう少し後輩たちのために頑張ってほしかった」と突然の訃報に驚きと悲しみに包まれていた。(稲福政俊、中村万里子)