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親子、それぞれの道を追い続け 島袋光尋さん、島袋光年さんは高校時代、父はテニスに息子は漫画に取り組む 沖縄工業高校(1)<セピア色の春―高校人国記>


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人気漫画家「しまぶー」の父は組踊の重要無形文化財保持者 親子二代で通った高校

 

島袋 光尋氏

 琉球舞踊島袋流千尋会家元の島袋光尋(80)は1941年、那覇市に生まれた。祖父は戦前後にかけて琉球芸能の継承発展に心血を注いだ国指定重要無形文化財「組踊」保持者の光裕、叔父は組踊音楽太鼓で人間国宝となった光史と、芸能一家だった。

 43年、母親らと宮崎県に疎開。父は南方で戦死する。終戦後は民間人収容所があった石川にいた祖父母の下に身を寄せた。光裕は沖縄民政府直営の松劇団団長だったこともあり、自宅には後に人間国宝となる宮城能造や八木政男、親泊興照らがよく訪れた。

 少年時代は米兵に混じって石川ビーチでよく遊んだ。母はその後米兵と結婚し、生まれた娘と渡米したが、光尋は「トートメーを継ぐ人がいなくなる」という理由で行かなかった。

 10歳の時、祖父母らと那覇に戻った。中学時代の成績はよくなかったが、テニスに熱中した。56年、光裕がグランドオリオン通りに琉舞研究所を設立し、60年に久米に移った。家計に余裕はなく、高校は職に就きやすいことを理由に沖縄工業に決めた。

 学校の上下関係は厳しく、先輩には陸軍式の敬礼が普通で「よく先輩から『あいさつしなかったな』と殴られていた」。テニス部に所属し、1年からレギュラー入りした。

 卒業後は宜野湾村役場に就職し、その後は数年おきに職を変えたが、変わらず続けたのが琉球舞踊だった。

 初舞台は高校卒業翌年の61年。64年には「上り口説」で新人賞を取った。初舞台から半世紀以上が過ぎ、気付けば祖父と同じ、実演家として後進の指導が使命になった。「私が受け継いできた踊りは琉球国のもの。それを継承するのが私の仕事だ」。

島袋 光年氏

 75年、光尋の長男に生まれた光年(46)は幼少から絵を描くのが好きだった。ノートに漫画を描いては友人に見せることが多かったという。中学3年で週刊少年ジャンプの新人賞へ応募を始めた。

 沖縄工業を志望したのは、中学で技術の授業が楽しかったことや、自宅から徒歩圏内にあったことが理由だった。サッカー部に入るも、漫画を描く時間を確保するため退部し、応募の締め切りが近づけば明け方まで描き続けた。学校では溶接や旋盤を扱う授業が好きで、製図は漫画にも生かせたため楽しく受けた。

 高校卒業後は上京する道を選んだ。神奈川県川崎市のおば宅に下宿するが、同時に始めた下水道工事のアルバイトは肉体労働で、「人生で一番きつかった」(光年)。傍ら、漫画を描いてはジャンプ編集部に持ち込む生活が続いた。

 21歳の時、急きょ休載となった漫画に代わり、光年の読み切り漫画がジャンプに載った。ほどなくして掲載された続編で人気が高まり、連載化が決まる。「世紀末リーダー伝たけし!」である。ギャグを前面に始まった作品の主人公たけしは高校時代、ノートに描いた落書きに着想を得たもので、人気キャラ「ボンチュー」は同級生のあだ名を拝借した。

 「RING」「トリコ」など多くの作品を手掛けてきた光年は「運がよかったという面もある。漫画家を志望しても結果がなかなか出ない人は多い」と振り返る。デビューから四半世紀。「いくつになっても諦めずに夢を目指す人を応援したい。これからもギャグはずっと描いていきたい」と語った。

(文中敬称略)
(當山幸都、吉田健一)


 

 【沖縄工業高校】

1902年6月 首里区立工業徒弟学校として首里区当蔵で開校
 21年6月 県立工業学校となる
 45年4月 米軍空襲で校舎全壊
 48年4月 琉球民政府立工業高校として那覇市安謝で開校
 52年12月 現在の那覇市松川へ校舎移転
 72年5月 日本復帰で県立沖縄工業高校となる
2002年10月 創立100周年記念式典
 14年8月 全国高校総体の重量挙げで宮本昌典が優勝
 21年7月 写真甲子園で優勝