▼(1)「最後の高等弁務官に…」就任式で米軍支配を拒絶 反戦貫く から続く
新基地建設の埋め立て工事が進む名護市の辺野古。1997年に結成した「命を守る会」に続き、漁港横で2004年に始まった市民の座り込みは4月、19年目に入った。その前年9月から毎日、平良修(90)・悦美(87)夫妻は現場に通った。終盤こそ回数を減らしたが、つい数カ月前まで続けた。
当時行われようとしていたのは着工に向けた海底調査。陸では港に資材を運び込ませないよう、海では調査船が目的の海域に近づけないよう、市民らは道路に座り込み、練習し始めたばかりのカヌーで海に出た。
当時の沖縄防衛施設局は調査の開始時刻を明かさず、早朝5時に関連の船が出港することもあった。その前に現場に着こうと夫妻は南城市佐敷の自宅を出て、料金がかかる沖縄自動車道は使わず国道や県道を走った。途中うるま市で警察に止められたこともあった。「こんな時間にどこに行くのか」と怪しまれたのは午前4時ごろだったという。
交代できる人もおらず、休みは日曜だけ。昼食のおにぎりを持って毎日、夏は炎天下、冬は寒風が吹き付ける中、修は漁港やテントで、悦美は海上のカヌーで、作業させまいと日が傾くまで体を張った。肉体的にも精神的にも過酷な現場では、沖縄戦を生き抜いた地域のお年寄りに加えて、揺るがない信仰心を持つ人たちが支柱となっていた。
夫妻はその30年も前から「現場」に立っていた。古くは1970年代、県道104号をまたぐ米軍の実弾射撃演習を阻止する喜瀬武原闘争で、機動隊が入ろうとする道路に座り込んだ。
「イエス・キリストは命を懸けて、例外なく全ての人を愛した。その人間同士が殺し、殺されてはならず、殺させてもいけない」と修は説明する。
79年に「琉球処分100年を考える」と題した集会を那覇市内で開いた修は「百年の歴史は国策のためのいけにえの歩みであった」と発言している。沖縄戦、米軍支配と続く沖縄を生きることは、人間存在の尊さを説くキリスト教信仰と表裏一体だった。
信徒に送り出され
修は非クリスチャンの親元で31年、宮古島に生まれた。戦時中、学校と並ぶ思想統制の装置だった町内会の会長である父を日本人として誇り、皇民化教育を徹底した学校で「優等生でなかったことは一度もない」という軍国少年だった。
疎開先の台湾で敗戦を迎え、沖縄に戻って入学した宮古高校では教員たちは一転、平和主義者として教壇に立っていた。その変節を目の当たりにして人間不信に陥った。誘われてのぞいた宮古教会で、確信に満ちて聖書を説く牧師の姿に信頼の光を感じた。2度はだまされたくないと慎重に近づきながら、クリスチャンとして新しい人生を踏み出した。48年のことだ。
戦前から沖縄にいた牧師たちは県外への疎開の引率や戦禍の犠牲になり、ほとんど残っていなかった。本島の信徒たちは収容所で賛美歌を口ずさむ仲間を見つけては、ばらばらにされた教会の集団を再建していった。信徒の中でリーダー的な人が牧師役を務め、しまくとぅばで語るハジチのある女性牧師も活躍した。
信徒たちは、沖縄の若者たちに県外の神学校で正式な神学教育を受けさせようと寄付を出し合い、大きな期待を込めて送り出した。修は1期生だった琉球大を中退して52年、東京神学大学で学び始めた。
正月休みに帰省する旅費もなく、1人寮で過ごそうとしていた修を、後輩が和歌山県の実家に誘ってくれた。そこで出会った「龍宮の乙姫さま」(修)が、60年以上連れ添う伴侶となった。
信徒と建てた大学
修が東京で学んでいた57年、沖縄では聖書の教えを基盤に平和な沖縄を希求する人を育てようと信徒らが沖縄キリスト教学院を開いた。最初の教室は、初代学長である仲里朝章牧師がいた首里教会の一室。戦時中に高校の校長だった仲里は、クリスチャンとしての反戦への意思と、軍の方針の板挟みに苦しみながら、教え子を鉄血勤皇隊に送り出し、その多くを亡くした。建学の精神には「皇民化教育への反省と沖縄再建の強い願い」を掲げた。
東京と米国で学んで沖縄に戻った66年、修は仲里から2代目学長を引き継いだ。施政権返還に向けて日本政府は、日本の大学設置基準を満たすよう求めてきた。学院の敷地面積や教授陣は基準の6割しかなく、残りを埋めるにはばく大な資金が必要だった。
沖縄戦であらゆる生活を破壊され、国の責任での復興もなされていなかった中で、信徒たちが自力で創り上げてきた学院だ。修たちは「基準に合致しないと存続できないなどと脅迫的要求をする資格は日本政府にはない」と突っぱね、短期大学として存続することを日本政府に公認させた。
耳も口もふさがれ、従うことだけを強いた戦前の教育を経験した修は学生たちに「物を言い、盾突ける人になれ」と教えた。教え通り学生たちは学費の値上げに反対して修ら大学に対して座り込みをした。修もまた学生の列の中に座り込み「互いの事情を聞こう」と話し合った。保護者の職業によって通貨交換時期がずれ、レートに差が出たことを受けた校納金額の調整は、そんな対話から生まれた。
学生たちはしょっちゅう自宅にも訪れた。4人の実子、1人の里子の5人の息子たちと共に食べ、過ごし、修の散髪を手掛ける悦美に「自分も」と頼むこともあった。「学長の家に行った男子学生は学長と同じ頭になると言われた」と2人は笑う。
「復帰」へ
沖縄社会では自由な発言も許されない状況が続いていた。修が高等弁務官に「最後であれ」と祈った後、悦美は修の親戚に「何かが起きるかもしれない」と電話をかけた。修の母は「修が暗殺されないか」と恐れた。牧師らは「平良牧師を守る会」を準備した。
沖縄社会が復帰運動に燃える中、修たちも人権を保障する後ろ盾として平和憲法を求めた。ただ、信徒であれば基地内のアメリカ人も「兄弟姉妹」で基地への出入りもある。クリスチャンではない県民の批判的な目も感じながら運動の現場に立った。72年5月15日には記念式典と並行して行われた与儀公園での抗議集会で、土砂降りの雨に下着までずぶぬれになった。
返還協定に反対する全島ゼネスト(71年)にも参加した。騒乱の中で亡くなった警官の殺害容疑で逮捕・起訴された青年が無罪判決を勝ち取るまで、夫妻は支援を続けた。裁判を通して、国家権力がうそや隠ぺいで個人の人権を踏みにじるさまも目の当たりにした。その本質は、米軍基地に抵抗する市民を暴力的に排除し、沖縄県の決定も無視して基地建設を強行する現在と「何も変わっていない」と言う。
佐敷と大里に教会
運営が落ち着いた沖縄キリスト教学院の学長を辞し、75年から28年間、南城市の佐敷教会で牧師を務めた。教会運営の傍ら、修は良心的軍事費拒否運動、靖国神社国営化反対沖縄キリスト者連絡会、一坪反戦地主会の代表世話人、沖縄人権協会理事とさまざまな活動を続けた。交流のあった丸木位里・俊夫妻は佐敷教会で沖縄戦の図の下絵を描いた。
電照菊の栽培や物販もしてお金をため「集落のよりどころになるものを」と青空に十字架が映える新しい教会堂も建設した。信徒は増え、隣の大里村(当時)にうふざと教会を誕生させた。それらの現場には「修を語れば悦美がいるし、悦美を語れば修がいる」で、歩みは二人三脚だった。
高等弁務官は沖縄を去り施政権は日本に移ったが、県民が望んだ沖縄は実現したか。修は今も郵便物の住所に「沖縄県」と書かず「沖縄・○○市…」とし、望まない形で吸収された1県として扱われることに抵抗している。
「最後には神の国が成就するというのが私たちの信仰。今やっているのはそれを勝ち取るための苦労で、もし今がどん底でもそれで終わりじゃない。その前に自分の寿命は尽きるかもしれないけれど」。2人は信念に満ちた晴れやかな笑顔で希望を語った。
(文中敬称略)
(黒田華)