「二つの祖国」日本とアメリカ行き来 県系2世花房マサミさん【キラリ大地で】


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原爆のドキュメンタリー撮影のため訪れた、俳優の渡辺謙さんを囲んで自宅前で写真撮影する(左から)マサミさん、渡辺さん、新子さん、昌子さん、ミッシェルさん=2009年

 ロサンゼルス・パロスバーデスで花房マサミさん(60)は日米を行き来しながら“二つの祖国”のために奮闘している。マサミさんの祖父は広島県の出身で、1918年、16歳の時にユタ州に渡った。4~5年ほど働き、21年に日系人が多く住むロサンゼルスに転住した。

 31年、同じ広島県坂町出身の女性と結婚、懸命に働き日本へ送金もした。一家はドライ・クリーニングのビジネスを始めるようになった。その間、2人の男の子と娘に恵まれた。男の子の一人がマサミさんの父だ。40年に一家は広島に戻った。そして第2次世界大戦が始まって、広島への原爆投下でマサミさんの叔母が亡くなった。

 47年にマサミさんの祖父は、一家全員でロサンゼルスに再移住し、ドライ・クリーニングをして生計を立てた。60年にマサミさんの父はUSC(南カリフォルニア大学)を卒業、その年にロサンゼルスの銀行で働いていた桃原昌子さんに出会い結婚した。昌子さんは沖縄出身で北山高校を卒業した。同期には駅伝の大村光洋さんや仲里長和さん(元沖縄県教育長、故人)などがいる。日本舞踊に秀でていて准師範になり、ロサンゼルスの二世ウイークパレードや沖縄県人会の催しなどで披露した。

 マサミさんは両親や家族の愛情を受けて成長し、スポーツに深い興味を抱いた。バスケットボールや野球に専念し、日系アメリカ人として脚光を浴びた。78年にマサミさんはカリフォルニア州立大学ノースリッジ校を卒業、会計学を学び、州のライセンスを獲得した。

 年月が経過し、マサミさんは日系アメリカ人として日本に貢献できないかと考えるようになった。89年に大阪へ行き、2年間を過ごして日本人に英語を教えた。その時、三重県松阪出身の木村新子さんに出会い結婚した。新子さんはミネソタ州でセイント・クラウド大学を卒業し、学位を得ていた。

 アメリカに戻った2人は2007年に会計事務所を設立し、マサミさんが社長になり新子さんと盛り上げていった。その年、パロスバーデスに家を購入して、現在は母の昌子さんと幸せな日々を過ごしている。

 一人娘のミッシェルさんは幼い頃からフィギュアスケートに秀でていて、ナショナル・タイトルに輝いたこともある。13年に祖父と同じUSCを卒業、15年に2世ウイーク準ミスに選出されて日本を訪れた。現在はアパレルの会社運営に忙しい日々だという。

(当銘貞夫ロサンゼルス通信員)