沖縄に日本復帰以外の選択肢はあったのか 「真の自治」求め続く模索<復帰50年夢と現実>1続き


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「ある時点で沖縄はどうするか自分たちで決めないといけない」と語る比嘉幹郎さん

問い直される「自治は神話」 キャラウェイ演説「独立意志」が埋もれた理由

 

 キャラウェイ高等弁務官の「自治神話」演説時、米国留学中だった比嘉幹郎さん(89)は、独立しなければ自治はないという発言の意味を「日本復帰しても琉球が何かを決められるわけではない。だから独立した方がいいんだ、と言った」と読んだ。帰国後の1971年に琉球大教授に就くと「沖縄自治州構想」を発表した。「沖縄の将来を決定するのは究極的には沖縄住民でしかない」と訴えた。

 復帰以外の選択肢を探る議論がなかったわけではない。1969年の佐藤・ニクソン会談以降、「反復帰」論も顕在化した。しかし、雪崩を打つ復帰運動の流れの中で、その主張は少数だった。

 後に副知事を務めた比嘉さんは、現在の沖縄の自治について「真の地方自治は自由に政策決定できるものだが、日米両政府にゆがめられた形となっている」と指摘する。「沖縄に差別と犠牲を強要する限り、抵抗の民主主義は続く。そうなればある将来の時点で沖縄はどうするのか、独立を含め自分たちで決めないといけない」と見通す。

「ただ『復帰』と拳を振り上げたことは浅はかだった」と語る平良長政さん

 2000年以降にも、沖縄の自治をダイナミックに見直そうとする動きがあった。09年、県内の研究者と財界人らでつくる「沖縄道州制懇話会」が地方政府を設置する「特例型単独州」を提言した。11年には超党派の元県議でつくる「特例型・沖縄単独州を実現する県議経験者の会」が発足した。事務局長を務めた平良長政さん(78)は「よし、やろうと。気持ちの高まりはすごいものがあった」と振り返る。

 平良さんは会の活動の中で、かつて米留経験者らが日本復帰以外の道を論じ、自主性や自立性を模索していたことを初めて知った。「『日本の一県でない沖縄をつくるべきだ』という主張を見逃した。当時は『平和憲法の下に帰る』『基地のない島に』との求めに収れんされてしまった。『復帰、復帰』と拳を振り上げただけだったことが恥ずかしい」と振り返る。

 政府を含め道州制に関する議論が低調だったこともあり、会は昨年3月に解散した。「辺野古」埋め立ての賛否を問う県民投票の実施や、琉球民族独立総合研究学会(ACSILs)など若い世代の活動をまぶしく見つめる。「われわれの世代はたくさんミスをした。でも『沖縄のことを沖縄で決める』と求めることを大切にしてほしい」。若者らの活動に光を見いだしている。
 (中村万里子)