沖縄の「出会えばきょうだい」はいつから?琉球古墓からヨーロッパ由来の人骨 「万国津梁」の源流たどれるか


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 【南城】風葬墓「神座原(かんざばる)古墓群」(南城市玉城富里)から移された納骨堂の人骨2体が西ヨーロッパ・中央アジア由来と朝鮮半島由来だったことが分かった。この2体を含む3体は同じ石厨子に納められていた。20日、南城市役所で同古墓群を調査する土井ヶ浜遺跡・人類学ミュージアム(山口県)の松下孝幸館長は、当時の琉球人が外国人を排除せずに受け入れてきたことを強調し、「『万国津梁の邦』の実態の一部が明らかになったと思う」と述べた。

人骨が納められていた2基の納骨堂。石厨子は手前の納骨堂に入っていた=南城市玉城富里(松下孝幸氏提供)

 一方、石厨子には墨書で中国の元号である「大清康熈四十五年」(1706年)と記されている。松下館長は、3体の人骨は石厨子に再埋葬されたとみている。

 松下館長は西ヨーロッパ・中央アジア由来の人骨が沖縄にある経緯について「ヨーロッパ人と中国人の間にできた子孫が、中国から交易の船に乗って沖縄を訪れ、定住するようになったのではないか」と推測した。その上で「人類学だけでは難しいので、人の移動や生活、貿易、産業形態など、さまざまな分野で調査を進めなくてはならない」と語った。

 会見ではこのほか、石厨子に入っていた3体の手足の骨の大きさが酷似していることや、上腕骨が発達していることなども説明。松下館長は「重い荷物を運んでいたなど、同様の労働や生活をしていたのではないか」と見解を示した。納骨堂には、3体以外の人骨75体もあった。松下館長はこれらについても説明し、中国大陸(渡来系)の人骨や高濃度の鉛が検出された男性の人骨などもあった。

南城市玉城富里の「神座原古墓群」の人骨について説明する松下孝幸館長=20日、南城市役所

 今後の課題について松下館長は「古代、中世の人骨の出土が極めて少ない。今後例数を増やして、引き続き調査を進めていきたい」とした。

 同市教育委員会文化課の担当者は「松下館長の研究チームと連携して人骨の調査を進め、古墓群周辺の歴史的価値などを明らかにできたら」と話した。

(金城実倫)

3体の人骨が入った石厨子。右側に墨書で「大清康熈四十五年」などと刻まれている(松下孝幸氏提供)

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