<戦後77年 琉球新報×信濃毎日新聞連携>慰霊の日 戦跡保存アンケート 32軍壕と松代大本営地下壕 16日まで


この記事を書いた人 Avatar photo 滝本 匠

 琉球新報は多くの人々が犠牲となったアジア太平洋戦争の実相を明らかにし、教訓を未来に伝えるため、長野県の県紙・信濃毎日新聞と連携した紙面づくりに取り組みます。

 太平洋戦争末期、本土決戦を見据えた日本軍は皇居や大本営、政府機関の移転先となる「松代大本営地下壕」を長野県に築きました。

 沖縄では本土決戦を遅らせるための「戦略持久戦」を指揮した32軍の首里城地下に司令部壕を造りました。

 戦時の日本を覆った国体護持・軍国主義優先の思想によって多くの国民の生命・財産が奪われました。過酷な戦争の痕跡を刻む松代大本営地下壕と32軍司令部壕は今を生きる私たちに多くのことを語り掛けています。

 信濃毎日新聞と琉球新報は2つの壕が発する教訓、壕の保存や公開、戦争の記憶の継承などについて報道し、読者と共に考えていきます。ご期待ください。


 アジア太平洋戦争、そして沖縄戦の悲劇を今に伝える地下壕が沖縄と長野にあります。

 首里城地下に築かれた第32軍司令部壕と松代大本営地下壕です。本土決戦を遅らせるための「捨て石」として戦われた沖縄戦を指揮した日本軍の拠点が32軍司令部壕であり、本土決戦を見据え、皇居や政府機関の移転先として築かれたのが松代大本営地下壕です。

 太平洋戦争末期に築かれた2つの地下壕は多くの国民の生命・財産を奪い、近隣諸国の人々をも苦しめた戦争の痕跡を刻んでいます。

 琉球新報と長野の県紙・信濃毎日新聞は2つの地下壕を通じて戦争の実相を明らかにし、読者と共に平和の道しるべを築いていきたいと考えています。

 その一環として32軍司令部壕や松代大本営地下壕に関する読者アンケートを実施します。

 

 回答は17日午前0時まで。以下のフォームからご回答ください。ご協力をお願い致します。

 https://forms.office.com/r/NL35YsUKzs

首里城地下の日本軍の第32軍司令部壕

 □第32軍司令部壕

 第32軍司令部壕は琉球王の居城であり、琉球王府の政治・行政の拠点だった首里城の地下に築かれた全長約1000メートルの地下壕です。現在に那覇市立城西小学校から沖縄県立芸術大学首里金城キャンパス付近まで、首里城の地下を南北に横断するように掘られています。5つの坑道口があったとされています。

 地下壕の構築が始まったのは1944年12月上旬。第32軍の第2築城隊に加え、沖縄戦で鉄血勤皇隊として戦場に動員される沖縄師範学校男子部や県立第一中学校の生徒が壕構築に駆り出されました。第32軍はこの壕を拠点に、本土決戦の準備を整えるための時間稼ぎの「戦略持久戦」を指揮します。

 32軍司令部壕には牛島満司令官、長勇参謀長をはじめとした千人余りの将兵や沖縄出身の軍属・学徒、女性たちが雑居していたといいます。朝鮮半島から渡ってきた女性たちも壕内にいたという証言があります。

 沖縄本島に上陸した米軍の攻勢で戦力を失った第32軍は45年5月末、司令部を置く首里を放棄し、一般住民が避難していた本島南部に撤退し、戦略持久戦を続けます。そこで米軍が進攻し、激しい地上戦となったため、多くの住民が戦火に巻き込まれ命を落としました。

 第32軍司令部壕は戦後、1960年代に那覇市や沖縄観光開発事業団が調査を実施。90年代には沖縄県も調査し、公開方針を打ち出しましたが、経費や安全上の課題から実現に至っていません。首里城火災を機に、沖縄県は保存・公開に向け調査し整備する方針です。

長野県の松代大本営壕

 □松代大本営地下壕

 太平洋戦争末期、長野県松代町(現長野市松代町)の象山、舞鶴山、皆神山に築かれた総延長10キロ以上もある大規模の地下壕です。戦況が悪化の一途をたどる中、本土決戦を見据え、皇居や大本営、政府機関、日本放送協会の移転先として築かれました。皇居の移転は「国体護持」を意図したものです。

 1944年11月、舞鶴山に最初の発破が仕掛けられ、地下壕構築が始まりました。皇居や大本営の移転場所としてこの地が選ばれたのは、本州の最も広い地帯にあり、近くに飛行場があることや、岩盤が固く、地下壕を築くのに適していたことなどの理由がありました。

 地下壕構築は45年8月の敗戦まで続きます。昼夜を問わぬ突貫工事に携わったのは約1万人で、そのうち6~7千人が朝鮮の人々だとされています。重労働を強いられた朝鮮人が記したとみられる文字が壕内の壁面に残されています。

 国宝だった首里城の地下に築かれた司令部壕を拠点に、第32軍は本土決戦の準備を整えるまでの時間稼ぎである戦略持久戦を戦います。兵力を失い、首里を放棄した後も本島南部に撤退し、持久戦を続けたことで住民の犠牲は増大しました。その間、長野では多くの朝鮮人を動員した地下壕構築が進められました。

 松代大本営地下壕の公開の機運が起きたのは80年代半ばのことです。長野市の私立篠ノ井旭高校(現・長野俊英高校)の郷土研究班による地下壕調査や壕保存を求める要請活動に取り組みました。郷土研究班の活動は沖縄に修学旅行がきっかけとなりました。地下壕は現在、象山にある約500メートルが公開されています。