米軍は沖縄本島を占領後、久米島に上陸する作戦だった。日本兵として、沖縄本島での戦闘で米軍の捕虜になっていた久米島出身の仲村渠明勇さん(当時25歳)は、屋嘉収容所で米軍の通訳から、艦船3隻で艦砲射撃をする久米島上陸作戦を聞いた。「島は無防備です! 艦砲射撃を中止してください!」
仲村渠さんは、久米島を焦土と化した本島の二の舞にさせまいと米軍を説得。米軍に先導の任を命じられ、住民が避難している山を回って下山を呼び掛けた。その説得を受け、内間好子さん(92)の家族は山を下りた。しかし仲村渠さんの行動は日本軍の目に留まり、「スパイ」として命を狙われることになった。
「パチパチパチ」。未明の激しく燃える音で当時10歳の吉永安扶(あんふ)さん(87)は目を覚ました。「とにかく燃えていた。空も真っ赤にするくらい」。眠れずに夜明けを待ち、弟を連れて見に行った。全焼した家はまだ所々、煙が出ていた。真っ黒になった仲村渠さんと妻、1歳になる子どもの遺体が無残な姿でさらされていた。
その直前、仲村渠さんの小屋周辺にいた14歳の古堅宗順さん(91)は怪しい人物を目撃していた。雨が降っていないにもかかわらず、みのをかぶってわらのつえを突いて歩く人がいた。近くで見ると顔は真っ白く、地元の人ではないと分かった。わらで包んで見えたのは日本刀。仲村渠さんが殺されたのはその日の夜だった。古堅さんは「明勇さんを探しに来ていたんだと思う」と振り返る。
軍国主義に絡め取られ、軍への絶対的服従を強いられた島の人々。仲村渠さん殺害に協力した島民もおり、戦後、住民が事件を口にすることはなかった。しかし1972年、鹿山正元隊長が事件について「軍人として今も当然と思っている」などと述べたことに対し、遺族から激しい抗議の声が上がり、当時の具志川村議会が謝罪を求める抗議決議をするなど波紋が広がった。軍国主義の責任を追及し、その思想を否定する住民の戦争体験を掘り起こそうという声も高まっていった。
戦前は海軍に憧れる軍国少年だった古堅さん。海軍に志願する予定だった。しかし、山で米軍の艦船が島を取り囲み、戦車が次々と上陸するのを見て国力の差を感じ、終戦に「助かった」と安堵(あんど)した。「仲村渠さんが艦砲射撃を止めてくれなければ、自分も死んでいただろう」と振り返る。
古堅さんや吉永さんは2021年に発行された久米島町史の聞き取り調査に応じ、初めて仲村渠さんについて語った。古堅さんは「久米島を守った人が殺されてとても後悔している」と複雑な心境を明かす。
国体護持と軍国主義の行き着いた先は、虐殺という凄惨(せいさん)な行為だった。古堅さんは、国策の果てにそうさせられた歴史を語り残し、軍国主義を二度と繰り返さないでほしいと願う。「『天皇陛下万歳』と言って死ぬ、という考えは間違っていたと思う。今の子どもたちには昔のような考えをしないでほしい」
(中村万里子)
命の恩人を日本軍に殺され 米軍上陸時、接した住民をスパイ視 久米島<あの日 生かされて>1(前編)