「誰が戦場に行かすか、帰れ」 少年の命を救った父の一言<あの日 生かされて>3


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護郷隊として動員された沖縄戦体験を語る仲田豊好さん=14日、恩納村名嘉真(ジャン松元撮影)

 「誰が戦場に行かすか。帰れ」。恩納村の山中に男性の一喝する声がこだました。1945年6月頃だ。ふもとの集落では大柄な米兵が幅を利かせ、戦争は負けであることは誰の目にも明らかだった。いったん解散した後、最後の攻撃をかけるからと「護郷隊」に再召集された仲田豊好さん(94)=恩納村=の父豊清の叫びだった。豊清さんは再召集のために訪れた人を追い返した。「死にに行くようなもの。父の一喝で助かった」。仲田さんは父の言葉をかみしめた。

 仲田さんが護郷隊に召集されたのは16歳の頃、沖縄戦前年の44年10月だ。召集令状が届く数日前まで伊江島での飛行場整備に動員されていたため「また伊江島への徴用だろうと。まさか兵隊とは思わなかった」と振り返る。

 配属先は「第1護郷隊」だ。部隊の中でも体が小さく、訓練は過酷を極めた。「毎日のように上官に怒られた」。護郷隊は地元の少年たちを「ゲリラ兵」に仕立て上げていった。部隊では通信暗号の担当になった。本部の伊豆味国民学校で専門教育を受け、名護岳で任務に就いた。橋を破壊するよう命じる通信を受けるなどした。だが、米軍が上陸し北部に近づくにつれ、通信はしにくくなった。

 名護岳では同級生の前田正幸さんが攻撃を受けて死亡した。前田さんは軽機関銃手として陣地の前方に構えていた。昼食を取りにきた前田さんから「ちゅーや、でーじなとんどー(今日は大変なことになっているよ)」と聞いたのが、最後の会話となった。

 遺体は夜間のうちに埋葬した。「即死状態。慌てて逃げるのに精いっぱいだったのではないか」と極限に追い込まれた同級生に思いをはせた。

 第1護郷隊の拠点となっていた名護の北方のタニュー(多野岳)に戻った。「また集まる」ことを前提にいったん解散するよう告げられた。解散直前には「万が一にも(米軍に)捕まっちゃいかん」と、手りゅう弾を二つ渡された。

 多野岳東側の三原で恩納村出身者と集まり、無線機や鉄砲を埋めた。軍服を着ていると「やられる」と思い、汀間の民家から着物を探し出して着替え、恩納村へ帰った。護郷隊の時にいた山中でも、帰る途中にも度々遺体を見た。恩納村に戻った後も山に隠れる生活が続いた。再度の召集も父の一喝で命を救われた。7月に投降した。手りゅう弾と軍服は山中に埋めた。

 仲田さんは「生きていられるとは思わなかった」と語る。つらい経験を重ねて強いられ「護郷隊でのことは嫌で嫌でたまらなかった。戦争は思い出したくない」
 (知念征尚)


<用語>護郷隊

 徴兵年齢に達していない10代の少年を集めて結成された遊撃(ゲリラ)部隊の秘匿名。2部隊が結成され、隊長にはスパイ養成機関として知られる陸軍中野学校出身者が就いた。第1、第2合わせて千人が集められた。地域のつながりや地形に精通していることを生かした遊撃戦と秘密戦効果が期待されたが、恩納村出身者が入った第1護郷隊は結果的に本部半島のタナンガ山や多野岳などに配置され、土地勘の薄い場所での戦闘を余儀なくされた。160人が亡くなった。「解散」後も出身地で情報収集することが期待され、完全に解放されたわけではなかったとされる。