村長判断で金武に疎開 森根昇さん(2) 捕らわれた日<読者と刻む沖縄戦>


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森根さん家族が疎開した金武町伊芸

 1945年2月、日本軍の要請で県は本島中南部住民の疎開計画をまとめます。森根昇さん(81)=うるま市=が暮らしていた与那城村(現うるま市与那城)の住民は金武村(現金武町)に移動します。

 前年の10・10空襲では平安座島が攻撃されていました。「屋慶名から伊芸に疎開しました。恩納岳のふもと近くです」と森根さんは語ります。

 県人口課の職員として疎開業務に当たった浦崎純さんの著書「消えた沖縄県」によると、与那城村住民の疎開先は東村でしたが新垣金造村長の判断で金武村へ疎開します。

 《村内に多数の山原船をもっていたことが、金造村長を勇気づけたと思われたが、彼はこの山原船を総動員して、敵前上陸よろしく、電光石火のはやわざで、アッというまに金武村の海岸線に揚陸作戦を敢行したのである。》

 与那城村にも事情がありました。「与那城村史」によると「山原に行っても食べ物が無いことを知っていた住民、中頭の人々の大部分は北部行をやめていた」といいます。そこで新垣村長は与那城村民と血縁、交友関係がある金武村への疎開を決めます。

 《新垣村長は金武に頼って行けば、まちがいなく生命が保証され得ると信じたからであった。》

 森根家も金武とは縁がありました。「伊芸の人たちにはお世話になっていました」と森根さんは振り返ります。