
森根昇さん(81)=うるま市=は両親と祖父母、きょうだいら家族10人余と共に与那城村(現うるま市与那城)屋慶名から金武村(現金武町)伊芸に避難しました。
伊芸では地元の人々に助けられながら暮らしていました。しかし、1945年4月1日に米軍が本島中部西海岸に上陸する前に家族は屋慶名に戻ります。食料不足が理由でした。「伊芸にいたのは1カ月くらいでした」と森根さんは語ります。
屋慶名に戻った家族は集落近くにある薮地(やぶち)島のガマに避難します。現在、島には橋がかかっていますが、当時は小舟で渡らなければなりませんでした。
「3月末、薮地島の端っこにあるジャネーガマや、その周辺にあるガマに分散して避難しました。屋慶名にいた住民のほとんどが薮地島にいました」
米軍機の襲来を避け、住民は昼間、ガマで過ごしていました。ふん尿の処理に悩まされたといいます。夜は舟で集落に戻り、イモを炊きました。ガマのある薮地島と屋慶名集落との往来には30分以上はかかりました。
米軍の本島上陸が近づいていました。幼かった森根さんは米軍におびえていました。
「空襲警報が鳴って急いで逃げようとすると泥に取られてしまい、泣いたことを覚えています」