1945年9月20日に古謝(現沖縄市)に置かれた収容所で亡くなった呉屋済造(さいぞう)さんの名が今年、平和の礎に刻まれた。収容所で亡くなった人も刻銘できると孫の呉屋盛光さん(84)が知ったのは去年だった。沖縄戦から77年を経てようやく刻銘できた。盛光さんは実家の仏壇に手を合わせ「今があるのはおじいのおかげ。礎にも手を合わせに行きます」と報告した。
戦前は、済造さんと祖母、両親、きょうだい4人の計8人で中城村の津覇で暮らしていた。1944年の10・10空襲などで戦況が悪化すると、他の家庭と同様に上津覇山に壕を堀り、避難した。集落上空を超低空で飛行する米軍機も増えた。盛光さんが珍しさに見とれていると、わずか2メートルほど横で銃撃の土ぼこりが舞い上がり、走って逃げた記憶が残っている。
45年4月、中城湾が米艦船で覆われた。すでに多くの住民は北部や南部へ避難していた。呉屋家は長患いの済造さんが満足に動けないことに加え、近くに住む南米帰りの男性が「狭い島ではどこにも逃げられない。米軍は女や子どもは殺さないし、両手を挙げて降参すればいい」と訴えたため、山中に隠れ続けた。その後、米兵に見つかり、家族全員が泡瀬の収容所を経由して古謝の収容所に移動させられた。
食べ物も満足に行き渡らない収容所生活で、栄養失調で弱っていく済造さんをみんなでみとるしかなかったという。
商売の才覚があった済造さんが建てた家は戦争で破壊されたため、戦後は極貧生活からの再出発。盛光さんは勉学に励んで教員として身を立てた。
沖縄戦を振り返る時「南部の激戦地に避難した人は一家全滅となったり戦争孤児になったと聞く。わが家は、軍国主義の思想に染まらない男性の見識のある一言で救われた」と、感謝の思いがこみ上げる。
きょうだい4人のうち、兄の盛徳さんは2009年に亡くなった。祖父の刻銘を相談すると「上等さ」と喜んだ弟の盛市さんも昨年7月に他界。祖父の名が刻銘される喜びもあるが「ともに大戦を生き延びた兄や弟にも見せたかった」と目を潤ませた。
(嘉陽拓也)
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