「真っ暗」「怖い」避難壕で沖縄戦当時を追体験 児童らが平和学習 南城・大里北小


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 【南城】23日の慰霊の日を前に、南城市立大里北小学校(平良正哉校長)で13日、平和学習授業が行われた。6年生43人が同市大里西原区を訪れ、沖縄戦当時、住民たちが避難した「メーミヤ壕」や区内に残る戦跡などを見て追体験したり、戦争体験者の話を聞いたりなどして、戦争の悲惨さや平和の尊さについて学んだ。

平良務西原区長(左)の案内でメーミヤ壕に入り、沖縄戦を追体験する大里北小学校の児童ら=13日、南城市大里西原区

 平和学習は西原区と同校が合同で企画。昨年実施する予定だったが、新型コロナウイルス感染の影響で1年延期となった。

 メーミヤ壕は、西原集落の地下にあるガマ(自然壕)で、沖縄戦当時は西原区内の女性や高齢者、子どもらが避難した。児童らは平良務区長に案内され、1クラス2グループに分かれ壕内へ入った。壕内のじめじめとした空間や天井から落ちる滴の音などを体感。平良区長が明かりを消すと「真っ暗」「怖い」と驚きながら追体験した。平良区長は「暗い壕の中、住民たちが集まった。外からは艦砲射撃の音が響いていた。敵に見つからないようにと、赤ちゃんを泣かさないようにしていた」などと体験者からの話を伝えた。

 その後、集落内を練り歩き、塀にある機銃掃射や艦砲弾の弾痕、島添大里城跡に日本軍が掘った壕などを見て回った。

 平和学習の後半は、県外へ疎開した玉城得繁さん(91)と、沖縄戦で家族らと南城市内をさまよった宮城盛時さん(82)がそれぞれ当時の体験を語った。

 玉城さんは宮崎県に疎開した。疎開した時は夏服しか持っていなかったという玉城さん。「冬はとても寒く、食べ物もなくひもじかったし、寂しかった。ひーさん、やーさん、しからーさん(寒い・ひもじい・さみしい)だった」と、疎開の苦労を話した。沖縄に帰ってからは集落には一つも建物や樹木がなかったことに衝撃を受けた。「小さな集落でありながら、108人の犠牲者が出た。絶対に戦争はやってはいけない」と強く語った。

 宮城さんは沖縄戦当時は5歳。市内各地を避難しながら、家族全員が生き残ったことを強調し、「子どもながらに艦砲のヒューヒューという音が鳴っていたのを覚えている」と伝えた。

 児童の一人は「壕の体験では暗闇の中、殺されるかもしれないと思いながら生活する住民のことを考えると怖いと思った。沖縄戦をもっと知って、自分たちができる平和は何なのか、考えていきたい」と語った。

(金城実倫)