魚雷攻撃で船が沈没「死を覚悟」 辺野古受け入れの元名護市長が語る戦争体験


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「神ケ森」に平和を願い建立された歌碑(右)と観音菩薩像=名護市

 【名護】元名護市長の比嘉鉄也さん(94)が、慰霊の日に合わせて自身の戦争体験を明かした。17歳で海軍に志願し、東南アジアの戦場に送られた。比嘉さんは「死を覚悟した」と当時を振り返り、平和を望む思いを語った。市長時代の1997年、住民投票で反対多数だった米軍普天間飛行場の辺野古移設受け入れ表明についても自身の考えを述べた。

 27年に名護市東江で生まれた。尋常高等小学校卒業後、青年学校に入り海軍に志願した。ニュース映画などで日本軍の快進撃を見る機会があり「軍に対する憧れがあった」

 長崎県佐世保などで水兵や通信兵として厳しい訓練を受け、東南アジアに向かう大型艦船の乗組員になった。フィリピンのマニラに停泊中、米軍の攻撃を受けた。「火の玉が上がってきて体が吹き飛ばされた」。慌てて下船しようとロープを使って急降下し、手の皮が全部むけた。

戦争体験や戦後の名護の様子などを語る比嘉鉄也さん=19日、名護市東江

 シンガポールに向かう途中に魚雷の攻撃を受けて船が沈没した。海に飛び込むと、船の重油が海面に流れ出し、瞬く間に周りが火の海になった。「思わず先祖に祈りをささげた」。炎が近くに迫って死を覚悟した。

 雨や風の影響で炎が遠のき救助された。その後はベトナムに渡った。沖縄戦を知ったのは通信業務に従事している時だった。司令部に呼び出され「電報に『為又』と書いてあるが何と読むのか」と問われた。電報は名護の為又で戦闘があったことを伝える内容だった。「故郷が戦場になっている。胸に迫るような思いがあった」。沖縄の家族の身を案じた。

 戦後、イギリス軍の捕虜になり九州に帰還後、名護に戻った。母、弟、妹らと再会したが、兄は沖縄戦で亡くなったことが伝えられた。

 比嘉さんはロシアのウクライナ侵攻と沖縄戦を重ね「民間人が武力の犠牲になってはいけない」と語る。「琉球はかつて武器のない島だった。日本は非核三原則を守り、外交力を強め、武器のことは忘れるべきだ」と主張する。

 一方で、市長時代に辺野古移設の受け入れを表明した判断について「熟慮した。後悔はない」と言い切る。

 比嘉さんは戦後、名護市の神ケ森に登り、戦争の影響で伐採された山や、焼け野原になった市街地を目の当たりにした。道路や幼稚園の整備など、できることから復興に取り組んだが「北部地域は中南部に資源や人材を供給するばかりで、発展が遅れている」と思うことが多々あった。移設受け入れを表明した際には、橋本龍太郎首相(当時)に「受け入れるが、国の振興策で北部全体を発展させてほしい」と強く訴えたという。

 「米軍基地を全部なくすことは難しい。まずは住宅地が密集する普天間から、海上に移設すべきだ」と力を込める。

 「戦争で苦しい思いをした。人が死ぬのもこの目で見た」。平和を願う思いは強く、神ケ森に観音菩薩像を建立した。隣には岳精流日本吟院の横山岳精氏による世界平和を願う歌碑もある。「将来的に神ケ森全体を平和公園にしたい」と夢を描いた。
 (長嶺晃太朗)