大叔父の養子となり、本部町の大嘉陽で暮らしていた森松長孝さん(88)=沖縄市=が現在の本部町役場の敷地にあった本部国民学校に通っていた頃、思い出に残る教師がいました。照屋忠英校長です。
照屋校長は本部町伊豆味の出身で、沖縄県師範学校を卒業後、国頭尋常高等小学校や今帰仁村の天底尋常高等小学校で校長を務めた後、1942年に本部国民学校に赴任します。前年の真珠湾攻撃で太平洋戦争が勃発していました。
森松さんは照屋校長の「アメリカはやっつけてもやっつけても、どんどん出てくる」という言葉を覚えています。照屋校長は米軍上陸後の45年4月、日本軍にスパイの嫌疑をかけられ命を落とします。
44年夏以降、八重岳や真部山に日本軍が陣地を構えました。宇土武彦支隊長が率いる独立混成第44旅団第2歩兵隊(国頭支隊、通称宇土部隊)です。伊豆味国民学校に本部が置かれました。
この年の10・10空襲では港のある渡久地が襲撃されました。森松さんは山中から空襲の様子を見ていました。
「誰も空襲とは思っていませんでした。敵の飛行機が機銃掃射をしているのを見て、初めて戦争が来たと思いました。その頃は防空壕がなく、木の下で震えながら泣いていました」