傷ついていく住民たち 森松長孝さん(5)山の戦争<読者と刻む沖縄戦>


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激戦地となった真部山の山中。道沿いに日本兵の供養塔がある=本部町大嘉陽

 本部町の八重岳や真部山に拠点を置いていた独立混成第44旅団第2歩兵隊(国頭支隊、通称宇土部隊)は1945年4月13日以降、米軍と激戦になります。森松長孝さん(88)=沖縄市=が潜んでいた真部山にも砲弾が打ち込まれ、顔見知りの住民たちが傷ついていきます。

 妻を砲撃で失い、嘆き悲しむ男性の姿を見ました。「ある日、崎浜小(さきはまぐわー)の人が私たちの避難小屋に来て『けさ、うちの家内がカンポーに当たった。頭を撃たれて死んだ』と話していました」

 森松さんがいた避難小屋から100メートルほど離れた所に潜んでいた知人家族も犠牲になりました。「山の上からアメリカーが降りてきて下に向かっていきました。そこにいた4歳くらいの男の子とおじいさんがやられてしまいました。男の子はしきりに水を求め、あくる日に亡くなりました。おじいさんは『モリーぐゎ、モリーぐゎ』と言っていました」

 負傷し、水を求める子に手を差しのべる余裕はありませんでした。後日、おじいさんも大浦崎の収容所で亡くなりました。

 傷ついた日本兵の姿も見ました。負傷した日本兵のうめき声を聞きました。「お母さん」と言って息絶えたといいます。

 日米両軍が激戦を続ける山中で森松さんは死に直面していました。