山を下り大浦崎収容地区へ 森松長孝さん(6)山の戦争<読者と刻む沖縄戦>


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米軍キャンプ・シュワブのゲート。本部、今帰仁、伊江住民の収容所が置かれた

 本部町の八重岳や真部山を舞台とした日米両軍の激戦は1945年4月13日ごろから始まり、日本軍は多くの戦死者を出しました。八重岳を拠点としていた混成第44旅団第2歩兵隊(国頭支隊、通称宇土部隊)は16日から17日にかけて、羽地村(現名護市)の多野岳に撤退します。真部山に隠れていた森松長孝さん(88)=沖縄市=は激戦の中を生き延びました。

 しばらくすると伊豆味にいた実家の母ウトさんが真部山を訪れ、戦闘が終わったことを森松さんに告げました。

 「母は『もう戦(いくさ)は終わった。早く山を下りなさい』と伝えに来たんです。伊豆味では撤退した宇土部隊が残していった食料で住民は生活していました」

 その後、真部山や八重岳、伊豆味の山中に潜んでいた住民を含む本部の住民は米軍の命令で久志村(現名護市)の大浦崎の収容地区に移動します。現在、米軍キャンプ・シュワブのある地です。「今帰仁に2、3日いた後、米軍のトラックに乗せられ、大浦崎に放り出されました」と森松さんは語ります。

 大浦崎には本部町だけではなく今帰仁村や伊江村の住民も収容され、町村単位に分かれて暮らしました。収用地区内ではマラリアが広がりましたが、幸いにも森松さんは感染しませんでした。